満月の浮かぶ雲ひとつない夜空の下、どたばたと落ち着きのない足音と荒い息を立てる初老の男が、暗く狭い路地裏を駆け抜ける。
憔悴し切った男の顔に滲み出るのは純粋な恐怖。
頻りに背後を振り返り“何か”を確認しては「ひぃッ」と引き攣った声を上げ、もたつく両脚を叱咤し働かす。
この単純な動作にどれほどの時間を割いたかも分からないほど、とにかく前へ前へと逃げることに専念していた。
そんな男の耳に、男か女かの判別すら難しい、ひどく中性的な声がぽつんと届く。
「止まってください」
男はさらに縮み上がり、怯えきった様子で何処に向けるべきかも分からないまま、大声で叫んだ。
「冗談じゃねぇ! 俺は家族のところに帰るんだ!」
ところどころ裏返る声を振り絞りそう言い放つと、窮屈な路地を抜け大通りへと出る。
日中こそ人の多いこの通りも、深夜を回った今の時間では人っ子一人みつからない。
無意識に月の見える方へ歩を進めるが、次第にろくに動かなくなってきた足を引き摺り、未だに振り切ることのできない背後の“何か”から逃げようと堪え――その半ばで膝を折ってしまう。
四つん這いになり地面を見たまま整わない呼吸を続けていると、青々と輝いていた月明かりが何者かによって突如遮られた。
男の息が止まる。
身動き一つ取れず、ただただ目を見開いて、長く伸びた人影を見つめるしかできない。
「いやぁ、ようやく追いつけました」
一切の感情が読み取れない、不気味なほどに優しげなその声と同時に鳴った、がしゃんと重厚な金属音が男の鼓膜を揺らす。
物騒なその物音に、反射的に顔を上げる。
「こんばんは、家族思いの脱獄囚さん」
恐ろしく巨大な刃物を持った、恐ろしく大柄な人間がそこにいた。
月明かりが照らし出した声の正体は、腰を抜かした男のすぐ傍まで近寄り、しゃがみ込んだ。
不敵に笑むその顔は、長い滅紫の前髪に隠れて口元しか露わになっていない。
そして間髪入れずに、そのふっくらとした唇が不可解な言葉を紡ぐ。
「とは言え、実際は牢などには入っていないんでしょうけどねぇ」
不気味なそれは、意味を持たない呻き声を漏らす男の頭を鷲掴みにして、刃物の鋭く研ぎ澄まされた切っ先を、その突起した喉仏に向けて構えた。
いよいよどうにも抑えられなくなった男が奇妙な叫び声を上げ、手足を無計画に振り回し足掻き始めた頃、やはり一つも歪まない声色でその人物は言うのであった。
「ごめんなさいね」 |