いつも休憩する際に立ち寄っている、お気に入りの桜の大木を離れて十分ほど歩いたところにある小さな公園。
学校帰りの子供達が寄り道して遊んでいくような、どこにでもあるような憩いの場だ。
しかしまだ昼も過ぎたばかりのこの時間だと、タバコを吸うためにうろちょろするサラリーマンくらいしか見つけることができない。
尤も、今はタバコよりも気になる存在が公園に入ってきたので、もはやそれどころでもないようだが。
成人男性でもそう見ないほどの長身を丸ごと包み隠すことのできる大きな厚手のマントで覆い、初夏の鋭い日差しの下、全身を真黒な革製品で覆った女が片手にコンビニのビニール袋をぶら提げ歩く。
明らかに時代背景を無視した格好であるにも関わらず、女は飄々とした様子で公園の隅にあるベンチに腰を下ろした。
多くの視線を浴びているのも気にせず――むしろ気付いていないようだが、ビニール袋から小さいサイズのパック牛乳を取り出し開封、足元から少し離れたところにそれを置いた。
するとベンチの裏の茂みから「ナー」と舌っ足らずな声で鳴く子猫が出てきて、少しの間中身を覗くように眺め安全だと確認を取ると、貪るようにしてそれを舐め始める。
「平和で何よりですね」
どう見ても暑そうな格好なのだが、それでも涼しげな顔のまま太陽を向く。
とは言っても、顔の大部分は長い前髪に埋もれてしまっているため表情は読み取れないのだが。
太陽の光もなかなか瞳まで届かないようで、じっと眩い光を放つ灼熱の惑星を見つめる。
「こういう風にしてると、ここもまだまだ捨てたもんじゃないと思うんですけどねぇ……」
よほど近づかないと聴こえないくらいの声量で呟く。
子猫はそんな声には目もくれずといった状態。
誰もその状況に水を差すこともなく、横目で様子を窺うに止まっていると、女はヘッドホンから流れる音楽を口ずさみ始め、いよいよ完璧な不審者へと成り代わってしまった。
子猫の食事も済み、会社員たちも昼休みを終え姿を眩ましてからしばらく経った頃、女の前にスーツ姿のいかつい男が歩み寄ってきた。
香りのしない変てこなタバコを銜えており、暑いらしくネクタイを緩めに緩め切っている。
「よぉ。また会ったな、姉ちゃん。相変わらずそんな暑苦しい格好して、よく平気そうな顔してんな」
先程、少年に仕事を押しつけて逃げた男だった。
あまり話したことはないのだが、仕事を紹介してくれる人なので、ヘッドホンをずらして欠かさずに挨拶する。
「どうも。これくらい着込まないと、手足がそれはもう氷みたいになっちゃうんです。冷え性なので」
「冷え性も限度ってもんがあるだろ…」
「私はいつも常識の一歩先を歩こうと決めているんですよ」
顰めっ面の男に自身の信念を伝える。
しかし割とどうでもいいことだったこともあり、タバコを嗜む男は「へぃへぃ」とぞんざいな反応であしらった。
吸い込んだ真っ白な煙を口から吐き出し、さり気なく涼しげな木蔭へと避難する。
「それにしてもよ、お前さんは何でこんな物騒な仕事選んだんだ?」
「……物騒とは、如何に?」
急な話に聞き返す。
襟元を必死にぱたぱた仰ぎ、男はそれに答える。
「定年超した連中をランダムに殺し回るような非道なもんだろ、この業界は。
政府の意向とは言え、普通の人間がやるもんじゃないことくらい、変わり者のお前さんにも分かるこったろうに」
「それは私が普通でもなければ、その程度のことに気を止めるほどの変人でもないだからでしょうね、きっと。
その他に何かあったとしても喋りませんけどね、世渡り下手なので」
「自分でそこまで分かってりゃ世話ねぇな……」
すっかり短くなったタバコをさらに吹かし、侮蔑を含んだ苦笑を浮かべる。
「俺と由乃は金目当てだが、どうも姉ちゃん見てると、稼いだ金にも大して興味なさげだからよ」
「ユノ?」
女が素頓狂な声を出すと、さも当たり前のように無臭のタバコを指の間に挟んで説明してくる。
男の反応の方が当たり前であることこそ当たり前なのだが、そういった類の常識はあまり通用しないようである。
「さっきの金髪野郎だよ。何度も連絡してんのに名前も覚えてねぇのか」
「名前を覚えるのがどうも苦手で……可愛らしい名前なんですね」
「本人は気にしてるから言ってやるなよ」
携帯電話のアドレス帳にも『仕事仲介の男の子』と登録してあるくらいだ。
実にわざとらしく後頭部に手をやって舌の先を出すと、男はやはり呆れたように口端を引き攣らせた。
「しかし私にとってこの仕事は天職です。昔からスポーツは好きでしたし、働いていれば自然と体も鍛えられます。
なんせ四六時中こんなもの背負ってるんですからね」
そう言って隣に置いてあった巨大な刃物に触れる。
あまりに露骨過ぎる形状のそれは傷だらけで、しかし刃は一切毀れておらず、むしろ不気味なほど美しく鍛え上げられている。
しかし男はその得物に関心を寄せることはなく、いまいち話の核を得ない女の態度に飽き飽きしていたところであった。
タバコもぎりぎりまで燃えカスと化してしまい、その吸殻を地面に投げ捨て、薄汚い革靴で踏み躙る。
「――お金はいらないですね」
ふと、今までとは打って変わった、どこか厳格な口調になる。
まるで男の思考を読み取ったようにも思えるタイミングである。
「ただ、最近になって私自身も何をしたかったのか忘れてしまって。でもまぁ、昔からよく言うでしょう?」
男を向き直った女の顔に、初めて瞳という部位が現れる。
奇妙なほどに濁りきった、人間らしくない…赤。
「好きなことしか続かない、とね」
どこに焦点が合っているのかも分からないような虚ろなそれに、男の意識は吸い込まれるように向いていた。
それは真夏日すら一瞬忘れるほどの衝撃で、恐ろしく嫌な汗が肌を伝った。
「いけませんね。うら若き乙女に手を出そうなんて、達磨さんが三百回転ぶよりも罪ですよ」
ふふ、といつもの笑みを溢した彼女に、興が冷めて我に帰る。
「……意味わかんねぇって。そもそも、やっぱ女だったんだな、姉ちゃん」
「姉ちゃんと呼んでおいてそれはないでしょう。敢えて断言はしませんけどね」
全く中身のない会話だ。
男は心底思うと同時に、直感ではあるが、あまりこの人物と関わらない方がいいことを悟る。
会話するだけで頭がおかしくなりそうだ。
そう感じた瞬間に、さっさと話を終わらせて由乃に押しつけておける案が浮かび、特に罪悪感を抱くこともなく実行に移すことにした。
「要はあれか? 俺らには理解できない人格破綻者とでも言いたいわけか?」
「あ、それって故意的にやると“中二病”って言うんですよ。知ってました?」
「いつの時代の言葉だよ」
「私の生まれるよりずっと前の時代の言葉です。
死語とはよく言ったもんですが、このインパクトのある意味と語呂は最高にユニークですよ。
あぁ、自分でもなんだかよく分からなくなってきました」
楽しげに笑って、「よっこらしょ」とベンチから重い腰を上げ、すぐ隣の凶器を肩に引っ掛ける。
思惑通りどこかへ移動するようだ。
自分から話しかけておいて何だが助かった。
しかし――やはり何においてもいちいちデカい。
男は自分よりも高身長の彼女を見つつ、どことなく同情の念を抱き、だが面倒になってすぐに捨てた。
関わらないと決めたら、徹底的に私事での関係を断つ。
禁煙より遥かに楽だろうと、お馴染の禁煙アイテムを溜息で吹かして蟠りを霧散させた。
「それではおじさま。お近付きのシルシにプレゼントです」
「おじさまって歳でもないな。覚えてもらえるなら御前で構わねぇよ。……で、なんだコレ?」
口の開いた紙パックを押しつけられる。
異様なニオイが鼻を突くこともあり、まともな返答を期待せず、しかし身の危険を感じて問い掛けると、やはり気味悪い笑みを持って口元を歪めた。
「牛乳です。真夏の炎天下の中、二時間ほど放置してみました。
いい感じに固形物が浮いてきたので、そろそろ召し上がるにはいい頃合いかと」
「限界の間違いじゃないか? どう考えても飲むじゃなくて食う状態だろ、これ」
嫌がらせの域を超したその行動に、いい加減疲れてくる。
よくもこう取っつきにくい人間がいたものだ。
「うふふ。それじゃ、私はこれから夜まで時間があるので遊びに行ってきます。
そのユノくんとやらにも改めてよろしくお伝えください、弘前さん」
「誰だよ」
踵を返すと同時に、わざとなのだろうか、再び無臭のタバコを銜えた御前に対して青森の地名を口にした女は、ヘッドホンから奏でられる懐古的なメロディーに体を揺らし公園を後にするのであった。 |