舞台設定 登場人物 本編小説 他要項 トップページ
【 1.2 肯定的異常 】



『――そんなわけで、あの姉ちゃんに今晩の仕事紹介し忘れちまってよ』

 時々ノイズの入る携帯電話を左肩で押さえながら、キャベツとシイタケの入ったフライパンを振るう。
 少し遅い昼食の調理中に御前から電話がかかってきてしまい、仕方なく出たところ、まぁ話が長い――。
 ほとんど左から右へ聞き流している状態だ。

『そこら辺で姉ちゃんに会ったら伝えておいてくれ』
「あのな……こちとら、さっきも警察と一緒に死体処理してきたばっかなんだぞ?
 人に嫌な仕事ばっか押しつけておいて、手元に残った小学生にもできるような伝言すら忘れるってどういう神経してんだよ」
『仕方ねぇだろ、もらった牛乳飲んだら腹下しちまったんだから!』
「飲むなよ! 馬鹿だろ、お前!」

 御前が住居として構えているアパート近くの公園でラスターと会った。
 その一言から始まり、公園での会話を一から十まで説明してくるのだが、少年――由乃が知っておけばいいのは「仕事を紹介し忘れた」という部分のみ。
 前置きが長過ぎてどこが本題なのか見失い始めた頃に、重要なことをぽんと言い出すものだから困ったものだ。

「……とにかく、ラスターに用件伝えりゃいいんだろ。兄貴も姉貴も飯待ってるから、もう切るぞ」
『頼んだ。俺もうちょっとトイレで頑張っから』
「勝手にやってろ」

 とことん口の回る男だ。
 このままではいつまでも喋り続けると思い、少々強引に電話を切った。
 慌てて焦げる寸前の野菜炒めを皿に盛り、電気コンロの電源を切る。
 同時に連動している換気扇も止まり、台所に静けさが舞い降りる。

「由宇、起きろ。飯できたから、早く由唯連れてこいよ」

 朝炊いて保温しておいた白飯を茶碗に盛りながら、炊飯器の横にあるドアを何度か蹴りつける。
 すると中から慌ただしい音が聞こえ、仕舞いに鈍い落下音がする。
 どうやらベッドから落ちたようだ。
 数秒後、ゆっくりとドアが開き、ぼさぼさの髪をした青年が出てきた。

 由乃の兄、由宇である。

「ごめん……洗濯物干してから二度寝しちゃった」
「もう三時になるっての。ぱぱっと食うぞ」

 炊飯器のをぱたんと閉め、由宇に山盛りの茶碗を二つ持たせる。

「悪いね、仕事の後に」
「そう思うなら、まずはその昼夜逆転した生活どうにかしろよ」
「肝に銘じます……」

 苦笑いする由宇に味噌汁を粧っておくよう言い、小盛りの茶碗と野菜炒めの入った大皿をテーブルへ置く。
 そこから散らかった居間を抜けて向かったのは、大きなガラス戸のある和室。
 北側の部屋ということもあり少しひんやりと涼しいそこに、長い黒髪を風に靡かせ椅子に座る女性がいた。
 窓の外の風景を眺めたまま、ひたすらじっとしている。

「由唯。遅くなっちまったけど、昼飯食っちまおう」

 近寄り、頭に手を軽く乗せてやる。
 しかし姉は反応せず、ぽかんと口を開けたまま、やはり外を虚ろに見ている。
 端麗なその顔に生気はなく、笑うこともしなければ、喋ることもしない。
 たまに何事かを呻いたり喚いたりすることはあっても、それが何を指すのかもよく分からないといったところが現状だ。

「……しばらくは仕事の方が忙しいから、散歩はまた今度…な」

 力の入っていない彼女の体を抱きかかえ、傍に置いてあった車椅子に移す。
 自力で体を動かすことも滅多にしないため、四肢は骨と皮しかないのではないかと疑うほど痩せ細っている。

 由唯は先天的な脳障害を持っている。
 生まれてから今まで、ほとんどこのような状態である。
 親戚からも生きているのか死んでいるのか分からないと言われ続けているが、由乃にとっては自慢できる美人な姉であることに変わりはない。
 もちろん由宇にとっても同じく、いつまでも愛くるしい妹だ。

「由乃、俺シジミいらないからあげる」
「自分で食え。三十路近くにもなってシジミ如き食えないでどうすんだ」
「馬鹿言うなよ! 貝類はいつまで経っても砂利さんと仲が良いんだよ! 噛むとゴリッて、ジョリッて!」
「ガキの頃のトラウマいつまで引き擦るつもりだよ」

 一番手がかかるのは、ひょっとするとこの意気地のない兄かも知れない。
 絶妙のタイミングで聞き取れない声を上げた由唯の頭をわしわしと撫で、由乃はそう実感する。
 そのままうじうじ呟く由宇を放置し、姉の分の茶碗を手に取り、ゆっくりと口へ運ばせてやることにした。





前話 モドル 次話
Copyright (c) Ai-R 2010.