「美利」
父の声が甦る。
酒は飲まないのに酒焼けしたみたいな、しゃがれた特徴的な声。
そんな棘のある声質とは相まって、人格は根っから優しいのが懐かしい。
名前を呼ばれた少女は、セミロングの黒髪を揺らして振り返る。
真っ白に輝く真夏の太陽の下、白と黄色の可愛らしいワンピースを着た少女は、その赤味を帯びた瞳に映る父に向けて手を振った。
「パパー!」
千切れんばかりに大きく振った手を下ろし、細い足で父に駆け寄ると、その分厚い胸板に飛び込んで鈴を転がしたような可憐な声で笑う。
少しよろけそうになった父がからかうように問い掛けてくる。
「母さんの花、ちゃんと綺麗に飾れたのか」
「うふふー見れば分かるの!」
えっへん!と少女らしい薄っぺらい胸を反らして、“長束家之墓”と書かれた立派な黒い墓石を指差す。
しかしその両脇に飾られた菊の花は、どことなくしょげて小さく見える。
何があったかを物語るように地面に散った数々の花弁たちが、なんとも言えぬ虚しさを醸し出していた。
「すごいな――母さんもきっと笑って見てるだろうな」
この時の父の笑みが苦笑であることなど、舞い上がった少女には理解できるはずもなかった。
「だってだって、ミトがんばったもんねー」
少女は事あるごとに「不器用だ」と父に言われ続けてきた。
そして、それが虚言というわけでもない。
粘土でヒヨコを作らせれば奇怪なオブジェを作り出し、包丁を渡してキュウリを切らせれば指を切り刻み、学校に行かせればクラスメイトと喧嘩して突き飛ばす――。
加減を知らず、遠慮を知らず、何もかも在りのままに行動するのだ。
他人に迷惑をかける度に声を荒げる父は少し怖いが、少女に反省の色が浮かべば、必ずその頭を撫でて終わりにしてくれる。
少女にとって、それはなんとも言えない絶妙な飴と鞭だった。
「そうか。じゃあ――」
しかし、今回に限り説教はない。
迷惑をかけられたであろう、花を手向けてもらうはずの人物はすでに他界しており、それよりも前に、迷惑をかけるとかかけないとか、そんな他人行儀を気にしなければならないような浅い関係ではないからだ。
「次はもっとがんばるんだぞ?」
ほんの数十分の間、母に触れた少女は、小さな拳を自信いっぱいに天へ突き上げる。
「おまかせあれ!」
そんな活発な少女の頭を、父はごつごつした大きな手で力強く撫でた。
いつもの嬉しいそれを受けた少女は、満面の笑みを無垢なままに浮かべた。
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「――あのときの“すごい”は、少し意地悪だったよね」
野良猫が好みそうな暗い路地裏、ビルの壁に手を当て歩く人影一つ。
それは不規則な呼吸をして、時に咳き込みながらゆらゆらと先へと進んでいる。
がしゃん、と巨大な刀がアスファルトに跳ねた。
女は口端を吊り上げるような下手糞な笑みを浮かべ、虚空へ向けて囁くように話す。
その声にいつもの能天気さはない。
「そういえば……最後に墓参りしたの、いつだっけ?」
引き摺られた刀が小刻みに震えて鳴る。
月明かりに黒く光るアスファルトには、刀の通った跡が白く残り――その傍を、大小様々な赤い斑点が不気味に彩る。
「今度はお母さんの好きな霞草も買…って」
不意に膝の力が抜けたと思うと、前のめりに倒れ込んでしまう。
大刀も大きな音を立てて落ち、視界が歪み、次第に回転を始めた。
眩暈だと理解し、体が振り回されないよう自然と地面を掴もうとするのだが、指先に力が入らない。
そのまま少しすると、地面についた頬に生温い液体が当たり、続いて回り続ける視界が下から赤に染められていく。
そこでようやく「あぁ」と思い出したように、上の空で呟いた。
「その前に、死んじゃうか、も……?」
なんとか開いていた瞼が完全に閉じてしまうと、体の冷えを感じ、意識が飛ぶまでの時間は瞬く間に過ぎていった――。 |