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【 2.2 赤、黒、不安 】



 ごちゃごちゃした真夜中の田端を走り続ける金髪の少年が、一人。
 その手には煌々と画面を輝かせる携帯電話が握られており、今まさに着信があったところである。
 社長からのそのメールには、「電車を使わない方が早く着きそうです。面倒を押しつけてごめんなさい」という一文と一緒にラスターの位置を登録した地図データが添付されていた。
 いつものように展開すると、ラスターを示す赤い点が現れたが、それは一切動こうとせず、一箇所に留まっている。
 どうやら雑居ビルとマンション間に通る細い路地にいるようだが――嫌な予感がして脂汗蟀谷に浮かぶ。

 目的地まで約六百メートル。
 時間にすれば二分か三分か、遅くてもそんなところだろう。
 ガラの悪そうな若者がちらほら目につく駅前を過ぎ、怪しげな風俗店の並ぶ道を走り抜ける。
 山手線の走るレール下をくぐると、十五階ほどありそうなマンションが見えた。
 恐らくあそこだ。
 すれ違う中年のサラリーマンや、コンビニ前に鎮座するカップルが全速力で駆ける青年を振り向くが、当の本人はそんなものに目をくれてやる暇すらなかった。

 家族でもなければ友達でもなく、恋人ですらなければ、かと言って同僚でもない――素性の知れない人間の無事を確認するために、何故こんなにも焦っているのだろうか。
 由乃の胸中には、そういった疑念さえ込み上げてきていた。
 つい数十分前には自分と無関係な人間を殺しておいて、同じような人間のため、目に見えない責任感に身を焦がすのは何故か。
 しかし脳に酸素もろくに回らないこの状況では、そんな哲学的な問題に対する答えなど浮かぶはずもなかった。

 ひたすら続くように感じられた数分の時が流れ、息の切れ始めた由乃の足が、暗い路地の前でぴたりと止まる。
 携帯の画面に映る赤い点まで、直進二五メートルのところまで来た由乃は、足元に染みる血痕を目にして戦慄する。

「――ラスター。いるのか?」

 猫さえも嫌いそうな、じめじめした幅一メートルにも満たない細い路地に入る。
 赤い斑点は止まることを知らず、不気味なほど等間隔に続いている。

 ふと、鉛色の物体が放置されていることに気付く。
 生々しく血液の付着した大刀だ。
 そしてそのすぐ隣には――あの古めかしいマント姿の女が横たわっていた。
 それこそ死んだように動かない。
 うつ伏せになって地面に転がる彼女のマントには、右胸部と腹部の二箇所に血の滲んだ痕が見て取れる。
 間違いなく銃撃によってできたものだ。

「おい、死んでねぇよな――!」

 慌てて駆け寄り、ぐったりとしたその体を返す。
 はらりと落ちた前髪は血に汚れ、その合間から覗けた瞳は閉じられている。
 咄嗟を叩くが反応はない。
 どこから何をどうすればいいのか判断することすら困難なほどに気が動転してしまい、気付いたときには真っ赤になった手で携帯電話を耳に当てていた。

『なんだよ、サボり魔』

 大して時間もかからないうちに、かったるそうな男が電話に出るが、そのケチに構っている余裕はない。
 立てた片膝にラスターの首付近を乗せ、両手で携帯にしがみつく。

「ラスターが倒れてて――…とにかく、血が!」
『怪我か』

 普段の冷静さなど微塵も残さず慌てまくった青年は、時間と状況を弁えず大声を上げる。
 そんな様子とは打って変わって、なんてことないように御前が言う。
 電話では全く意味を成さないが、無言のまま大きく頷くと、ヤブ医者みたいな外見の元外科医は慣れたように質問を投げかけてきた。

『意識はあるのか?』
「いや、呼んでも叩いても反応しない」
『呼吸は? 胸元が動いてるか確認しろ』

 言われた通り、ふっくらとする胸元を注視する。
 すると微かながら動いているのが分かる。

「一応、息はちゃんとしてるみたいだ」
『そうか。んじゃあ、どこをどう怪我してんだ』

 御前との一問一答のせいか、由乃も徐々に冷静さを取り戻す。
 同時に、先程まで見えなかった生々しい傷跡が、月明かりに浮かんできた。
 黒々とした服は無残に破れ、露出した肌は赤黒く染まり上がっている。
 あまりの惨さに胃が捻じ切れそうになるが、それを必死に堪え、傷のある箇所をなるべく的確に伝える。

「あー……ヘソの少し上と右胸に撃たれた痕がある。背中まで貫通してるから弾は体ん中にはないと思うけど――」
『肺だな』

 そう、ちょうど肺の位置に傷がある。
 学のない由乃だって、肺が傷つけば呼吸困難になることくらいは知っていた。
 その状態に陥るまで猶予があることはあるのだろうが、そこまでは詳しくない。
 御前もいちいちそんなことを説明するつもりなど毛頭ないように質問を続ける。

『口から血が漏れたりしてないか』
「いや――出てない。あぁ、あと左肩にも切り傷がある。
 鎖骨の下辺りから肩まで……かなり深いな。まだ血も止まってない、ような…」

 それは傷口から骨が見えるほどの深さだった。
 思わず口を覆うが、手にこびりついた鉄臭さに噎せ返ってしまう。

『出ちまった血は戻せねぇし、それは仕方ないだろ。本来ならまずは止血なんだが――』

 適当だが同意せざるを得ない御前の言葉はさらに続く。

『清潔な布……なんてもんは持ち歩いてねぇだろうから、取り敢えず背負ってお前の家まで運んでやれ。
 着いたらタオルなり包帯なり使って、とにかく血を止めろ。あとは俺がその場で処置してやる』
「その場って――救急車呼ぶんじゃないのか?」

 御前の指示に驚いて問い掛けるが、よくよく考えてみればそんなものを呼べるはずもなかった。
 案の定、御前からも「馬鹿か」と呆れられる。

『救急隊員は掃除屋のことなんてのは知らされてねぇよ。
 そんな重篤患者を乗せたところで、事情も説明できないで怪しまれるのがオチだ。
 家に向かうのも誰にも見つからないように、だな。姉ちゃん自前のステルス機器持ってんだろ?
 一回くらい拝借したってバチ当たらねぇよ』
「あ、あぁ、分かった。着いたらまた連絡入れる」
『くれぐれも姉ちゃんの左腕、無闇に引っ張ったりするなよ。
 引っこ抜けたなんて言われても、俺の手持ちの医療器具じゃなかなか繋げられないぞ』
「なるべく気をつける。助かった」

 電源ボタンを押すと、時計とスケジュールのみの待受画面に切り替わる。

 現在、午前一時四〇分。
 由乃の住むマンションは王子駅周辺にある。
 電車も使えなければバスもタクシーも使えないこの状況では、大人しく歩いて帰るほかなさそうだ。
 家からここまで計ったことはないが、遠くても三キロメートル程度だろう。
 ラスターを背負ったとしても一時間もあれば着くはず――問題はそれからだが、今はとにかく歩くべし。
 携帯電話をしまい、御前にも忠告された通り左腕を動かさないよう配慮し、肩組みの状態で中腰のところまで立ち上がる。

「さすがに、重い……っと、ご自慢の愛機借りるぞ」

 身長差およそ十センチメートル強。
 言わずとも分かるように、ラスターの方が長身である。
 そのため意識のない彼女の体は恐ろしく重く感じられる。
 それでも、そんなことを長いこと気にしてはいられない。
 傷を負ってどれだけ時間が経ったか分からないが、にもにも善は急げ、だ。
 ラスターがいつも腰に提げているステルス機器を手に取り、しばらく片手で使用法を模索。
 やがてそれらしいボタンを見つけて押してみると眩い光に視界を占拠され、徐々に元の光景が戻ってくる。
 最終的にがかかったように見える程度にまでしか回復しなかったが、恐らくこれが作動している証拠なのだろう。
 一緒に作動しているらしい消音機のせいで一切の音が聞き取れないが良しとした。
 しゃがんでから背負うと立ち上がれそうになかったので、中腰のまま四苦八苦して背に担ぎ、大刀は後ほど取りに来ることにして壁に寄せ、重い足取りで自宅へと向かった。





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