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【 2.4 VS.人外的トラウマ 】



 酒臭い薄汚れた部屋の中、携帯電話が鳴り響く。
 規則的なその音を中断させた手はごつごつと骨ばっていて大きい。
 そのまま着信内容を確認するため画面を覗き込むのは、歯ブラシを銜えた、髭面の男。
 口の周りに白い泡が付着している。

「『ラスター、ただいま起床――近江川』か。あんだけ出血してたら、数日は昏睡状態が普通なんだがな」

 返信はせず、再びビール缶に埋もれるテーブルの隙間に携帯電話を放り捨てる。
 するとそれは鈍い音を立てて跳ね、床に放置してあった銀色のトレイにダイブした。
 トレイの中に入っていた無数の金属が互いに当たって甲高く鳴る。

「………」

 口を漱ぎ終えた男は、一晩で生えてきてしまった鼻の下の髭のみを剃り、パンツ一丁で部屋をうろつく。
 あまりに散らかり過ぎて、洗濯した服と脱いだまま放置した服とが混合してしまったらしい。
 やがて汚れていなさそうな灰色のTシャツを見つけると、ガサツに身につけ、閉めっぱなしだったカーテンを開ける。
 その動作のせいで棚から何かが落ちた音がしたが、いちいち気にするのも億劫だった。
 ソファに腰を掛け、容赦なく注ぎ込んでくる太陽光を睨み、どうにも冴えない気分のまま愚痴をこぼす。

「結局、あの姉ちゃんとは色々あるな」

 腹の底の知れぬ彼女から離れようと心がけても、なんだかんだとそれは空回りを続け、しまいには命の恩人的な役まで買って出てしまった。
 御前にとってラスターという人間は、心底から薄気味悪い存在だと思っているのだが、今まで仕事を紹介したり共同作業したりということが全くなかったわけではない。
 特に最近は、由乃が仕事に対してナイーブになってしまって使い物にならない場面が多々あり、その度に社長から名指しで組まされたこともあった。
 そんな人間が死線を彷徨うと知っては、流石に放置するわけにもいかない気がしたのだ。
 つい無意識のうちに手助けする方向へ口が滑った

 由乃からラスターの容体を知らされたのは、ちょうど老婆の遺体を細工し終えた頃。
 幸か不幸か、手元にはそんな状況を先読みしたかのように応急処置に必要な医療器具が揃っていた。
 言うまでもなく、遺体の死因偽装のために用意したものである。
 普通の医者なら実費でこんなものを揃えることはしないのだろうが、そこが御前のちょっとおかしなところとでも言えようか。
 金銭面での問題もあるため馬鹿みたいに巨大で高精度な医療機器こそないが、ある程度の外傷なら容易に塞ぐことのできる程度のものは一式所有している。
 そしてこのマニアックな収集癖が奏したか、どこまでもふしだらな御前が“御の字”からなかなか解雇されない理由ともなっている。

 今回のラスターの件もそうだったが、掃除屋は負傷した際、基本的に救急搬送を使用できない。
 理由はほかでもなく、その負傷自体が法に触れる可能性が極めて高いためである。
 最低限処置はしてもらえるだろうが、そのあとが非常に厄介になるのは言うまでもないだろう。
 事情を知っている警察上部と、何も知らない医療機関、マスコミ等々、そしてその両者に挟まれる掃除屋。
 最終的には、仲間の尻拭いは自分達でしろと言われるのがオチではないだろうか。
 たまには騒ぎでも起こして、こんな面倒な法を制定した連中に一矢報いたいと思わなくもないが、そのせいで職を失っては元も子もない。
 かと言って負傷者を放置して死なせてしまっては、志望者の少ないこともあり人手不足に陥り、それが原因で金のかかる高齢者が財政を圧迫……なんてことも有り得る。
 そこで登場するのが御前のような“医者かぶれ”だ。
 尤も、他の掃除屋団体に所属する似たような人間は、少なくとも自前のメスなんざ持ってはいないのだが、器具一式を持参した有資格者というだけでもそれなりに重宝される立場ではある。

 しかし、その待遇も長くは続かない。
 あまりに図に乗り過ぎた結果が、先日の社長からの忠告である。
 そろそろちゃんと仕事しないと本気でクビを切られる可能性だってある。
 その確固たる証拠となるのは――

「目、マジだったしな」

 社長、契約書破こうとしてたし。
 むしろちょっと破れてたし。
 だが、まだあれを破棄されるわけにはいかない。
 何しろ御前には巨額の借金があるのだ。
 正確に言うとローンなので、実質的に金を借りたわけではないのだが……御前にとっての問題は、そんな簡単なものじゃなかった。

 ふと、アルミトレイにダイブしたままの携帯電話が震え出す。
 トレイに置かれていたメス一式も、一緒になって共振した。
 嫌な予感がして発信元を確認し、あまりに予想通りで項垂れる
 なおも御前のごつい手の中で震える電話は、しかしそんな男の気など知ろうともしないような容赦のなささえあった。
 いつまで経っても切れそうにないので、腹を決めて出ることにした。

『あれ。今日はちゃんと午前中に起きてんじゃない』

 無言のままでいると、相手は気にする様子もなく声を発した。
 負けん気の強さが滲み出るような声色の女である。
 すでに戦意喪失状態の御前は、誰がどう聞いてもかったるそうな声で応対する。

「用は何だ。先月分の慰謝料はちゃんと振り込んでおいただろ」
『なに偉そうに言ってんの? それは当然のことでしょ。振り込んでなかったら今すぐその頭ブチ抜きに行くっつの』
「だったら何の用だって聞いてんだ。早く言え」

 いちいち回りくどい女だ、とイライラしてタバコに手を伸ばす。
 とは言ってもほぼ無味無臭の子供騙しみたいなものだが。

『それが被害者である妻に対する言葉でいいと思ってんの?』
「元妻、だ」

 これは完全に赤の他人との会話である。
 そこには互いの嫌悪が表れるような陰険な雰囲気すらあった。
 今となっては電話番号のみの繋がりとなった女も、『まぁ、いいや』と案外さっぱりと前置きを切り捨て質問を投げつけてきた。

『単刀直入に訊くよ。ラスターの居場所を教えな』

 まさに単刀直入をそのまま意味するテンポだった。

 いや、そもそもこれは質問でもなんでもない、紛うことなき命令である。
 自分をどこぞの貴族とでも勘違いしているのか、女は何を躊躇うこともなく御前に向けて、知っていることを前提として訊いてきたのだ。
 あまりに予想外な言葉に返す単語を選りすぐろうとするが、動揺でもしたのか、まともなものが思い浮かばなかった。

「知るか」
『嘘つくなら、もうちょいまともに装えっつの』

 当たり前だが、すぐにバレた。
 しかし、何に一番驚いたかというと、元妻であるこの女がラスターを知っていたことだ。
 それはつまり、離婚した当時はごく普通の主婦だった彼女が、知らぬうちに掃除屋に身を置いていたということになる。
 元から変わった女だったが、妙な言いがかりをつけて慰謝料を御前から巻き上げたにも関わらず、まだ金に執着するとは恐れ入る。

「……あの依頼はどっかのトンデモ野郎の悪戯だったことも発覚してる。
 今更あの姉ちゃんを始末したところで、報奨金は一銭も出ない。
 それどころか、警察の目に余れば直々に処分されるぞ」

 殺し屋同士の潰し合いほど醜いものはない。
 どちらが死ぬにしろ、結局最後は内閣府によって秘密裏に消されてしまう。
 それも両者共に顔見知りともなれば、なんとも他人事とは思えなくなりそうだ。
 しかし現状ではその必要はない。
 自分の精神的疲労を事前に取り除こうと、電話先の元妻に向けてそう告げる。
 いくつか文句を言われたとしても、そのまま諦めて電話を切るだろうと思ったのだが――全く期待していなかった、気が狂ったような高笑いが聞こえてきた。
 あまりに突然のことにタバコを床に落としてしまい、慌てて火を消すが、電話相手はそのまま奇妙なテンションを保って不可解なことを口走った。

『そんなこと、とっくの昔に知っとるわ。今は単純に、あいつがあたし達にとって邪魔だってなわけよ』
「おいおい……金の亡者とはよく言ったもんだけどよ、そんな勝手なことしたらお前らも消されるのは言うまでもないだろ」
『食物連鎖も権力誇示も、何事においても強者と弱者のバランスってのは超重要なわけ。
 それすら考えられないような目立ちたがり屋の“お馬鹿さん”は、早いうちに黙らせる必要があるってことよ。
 あんたもそれなりに馬鹿だけど、一応は医者の端くれやれるくらいの頭はあんだから“判る”でしょ?』

 回りくどい。
 女は御前を手のひらで転がすように茶化し、最後にようやくオチをつけることで終幕を演出した。

 ――実に回りくどい女だ。

『誰がこれを仕向けたかくらいは、ね?』

 分からなくもなく。
 そして、解らなくもなく。
 だが何よりも、判ってしまった――気がする。

「――…そりゃ、間違いなく外道だな」

 それだけ呟いて、力一杯に携帯電話を床に叩きつける。
 落とした程度では壊れることすら知らないそれも、破壊することを前提とした衝撃には耐えられなかったらしい。
 通話を終了させる間もなく複雑な基盤を周囲に散らした。

『あーあ、壊しちゃった。ま、ラスターの潜伏場所に関しては始めから絞ってあるんだけどねー』

 耳に障るノイズと共に、そのスピーカーから女の声が鳴る。
 どうやら今回の電話は完璧にお遊びだったようだ。
 高飛車な笑い声が続けて響いたと同時に、御前はを振り下ろしトドメを刺す。
 すると、あのトラウマの塊である声は聴こえなくなり、部屋中が不穏なほど静寂に包まれた。

 一時的な感情で行動してしまったが、これであの女との関係も一切が壊すことができたのだと思えれば安い代償だ。
 社長から仕事と兼用する意味で渡されたものだが、事情を説明すれば、あわよくば減給程度で済むかも知れない。

「さて……どっから何をすべきなんだか」

 つい数日前までの怠惰からは想像もできない展開だ。
 現実味の抜け落ちた現実に途方に暮れてしまう。
 そんな御前が取り敢えずジーンズ探し当てて穿くことにしたのは、これからしばらく後のことであった。





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