「関羽第二小学校出身の長束美利です」
真新しいニオイの、埃さえ目立つ紺色の制服を身にまとった少女が、年季の入った机と椅子を退かして自己紹介する。
落ち着きなく机に隠した手を擦り合わせて動かす度、短い黒髪が小刻みに揺れる。
「得意な科目は体育で、バスケットボール部に入部しようと思ってます。
苦手な教科は音楽と美術です。中学校三年間の目標は――」
三十人を超える数の少年少女の目が、まだ知らぬ長身の少女のことを一心に見つめていた。
それを肌で感じつつ、昨晩考えた自己紹介文の最後の一文に沿って声を発する。
「一緒に盛り上がれる友達を、たくさんつくることです」
やや低めに設定されたその目標を言い終え、「よろしくお願いします」の挨拶と共に一礼して着席する。
少し遅れて拍手が鳴るが、これがテンプレートであることを知っているだけに、別段なんとも思わなくなっていた。
まぁ、これはこの長束美利という少女に限らないことだろう。
この中学校には、美利の小学校時代の友人も多く進学している。
だから今更、新しく友人をつくる必要もない。
中学校という見知らぬ環境に心踊らないわけではないが、義務教育という範囲に収まるここでは、自分に厳しい目標を立てる必要性を感じられずにいた。
これも、数十分前に入学式を終えた新中学一年生にしては、ごく普通のことだろう。
そんな美利のやや変わったところといえば、小学二年生のときに母親と死別しているというところくらいか。
しかし父とは恐ろしいほど仲が良いので、それも今となっては気にすべきことでもなかった。
実際に授業が始まってからは、希望していた通りバスケットボール部に所属し、運動神経の良さを活かして試合に出場するようになり、部活やクラスを通じた友人も増えた。
勉学については、音楽と美術が相変わらず危険だったが、その他の教科は上の下と至って良好。
その調子のまま二年生になってからは、持ち前の明るさのお陰か恋人もできた。
男子バスケットボール部所属の、これまた割と顔のいい同学年の男子である。
この付き合うというのも、単に未踏の地に踏み入れたかっただけなのかも知れないが、小学校に通っていた当時よりも少し長くなった通学路を二人で歩くというシチュエーションは、なかなか乙なものだと思い込んでいるところがあった。
「――で、靴紐踏んでコケそうになったから、とっさに前に走ってた杏美のズボン引っ張っちゃって」
「あー、それであの騒ぎか。お前やっぱすげぇな」
「ふふふ、純白でしたぞ」
「漫画みたいな展開グッジョブ」
……とまぁ、こんな会話を繰り広げる毎日が続いた。
果たしてこういった関係が恋人同士と呼べるのかどうかは人によるとは思うが、気兼ねなく会話できるという点においては、美利にとってこの孝馬という少年の右に出る者はいなかった。
「じゃ、また明日ねー」
「おう」
小奇麗なマンションに着くと、自動ドアの前で、いつも通り孝馬に手を振り別れを告げる。
郵便受けのロックを解除し、父親の携帯電話の明細の入った封筒を取り出してからエレベーターに乗り込む。
外を見ると、少し照れ臭そうにバッグを振り回していた孝馬が手を振るので、美利も再び同じように応え――エレベーターが動き出した。
自宅のある五階まで辿り着き、踊り場にいるペットの十姉妹と戯れた後、鍵を開けて帰宅。
父親はまだ仕事から帰っておらず、午後六時を回ったこともあり室内は薄暗く視界が冴えなかった。
それを気にするのも面倒に感じ、そのまま自分の部屋に入ってバッグを放り投げ、誰もいないことをいいことに、下着を隠すことなく体操服を脱ぎ捨てる。
梅雨ということもあって、この上なく蒸し暑い部屋から出て冷蔵庫まで練り歩き、下着姿のままそこから取り出した麦茶を飲み干す。
「ふいー…生き返った――…?」
ふと、居間に置かれた電話がオレンジ色に点滅するのが目に入る。
留守番電話に伝言メモが入っているらしい。
冷蔵庫からプリンを取り出して閉め、口で蓋を開けつつ伝言メモの再生ボタンを押した。
画面には父親の携帯番号が表示されている。
『――もしもし、父さんです。
珍しく残業入っちゃって、帰りが八時近くになりそうだから、今日は先に飯食ってていいよ。
それじゃ、何かあったら連絡ください』
電話になると何故か畏まる父のしゃがれた声が、ぷつんという音を立てて消えた。
その沈黙がどうも嫌で、部屋の電気とテレビの電源を入れ、ついでにクーラーも自動運転にしてつける。
「……残業なんて久し振りじゃん」
ぼそっと呟き、室内に干してあったぶかぶかのシャツを手に取って着る。
テレビから芸人の笑い声がけたたましく鳴り、ちょっとうざったくなってチャンネルを替えまくる。
子供向けのアニメ、料理番組、ニュース……どれもあまり見たい気分ではない。
今日はおもしろそうなのないな、と諦めかけて残した最後のチャンネルをかけた瞬間、画面いっぱいに純白の子犬が映し出された。
「うわー…杏美のパンツよか白い」
可愛いのはもちろんなのだが、どうも先程の会話から脳を切り替えられていなかったようで、気付いたときにはそんな言葉が零れていた。
それも誰が聞いているわけでもないので前言撤回する必要もなく、冷蔵庫を物色し、使いかけの野菜を適当に取り出す。
それらを洗ってからブツ切りにして、油を熱したフライパンの中に投入。
ばちばちと水分の蒸発する音を気にもせず塩と胡椒で味をつけ、ある程度火が通ったところで皿に盛る。
これぞ男の料理の代表格、野菜炒めの完成である。
あとはインスタントの味噌汁を発見したので、残っていた白飯を電子レンジで温めて夕食とすることにした。
我ながら手際がいいな、と感心したりするが、父が残業のときは大抵このメニューであることは察してもらいたい。
珍しい動物や、おバカなペット自慢なんかを流し見する程度にしつつ夕飯を平らげると、すぐに食器を洗い終え、電子レンジを使っている間に沸かしておいた風呂に入る。
「……お父さん、遅いなぁ」
気がつけばもう八時過ぎだ。
残業となると帰りの時間もまちまちであるため、八時と宣言したからぴったりに帰ってくるということはないのだが、家に一人で留守番というのは案外退屈なのである。
「孝馬の携帯にでも電話しよっかなー」
そう考えてからの美利の行動は早かった。
湯船のお湯を巻き込んで浴室から出ると、脱衣所の床をびしょびしょに濡らしながらタオルで体を拭く。
言うまでもなくこの時期は暑いので、例の如く下着姿のまま居間に戻ると、電話の受話器を手に取り暗記した電話番号にダイヤル。
美利は携帯電話を持っていないので、よくこうやって固定電話から孝馬に電話をかけるのだ。
そしてあまり長くならないうちに切っては履歴を消去する。
父に見つかると少し面倒なので、そうするのが日課となっていた。
「うーん……」
しかし、一向に孝馬の携帯電話には繋がらなかった。
電源を切っているというわけでもないようのだが、どうやら今は手離しているらしい。
こういうときに限って暇を潰す方法がないものだと痛感して、不貞腐れて床に寝転がる。
なかなか進まないアナログ時計の秒針との睨めっこが数分続く。
その間も付けっぱなしのテレビだけが部屋の沈黙を阻止し、美利のぶつけようのない退屈感を辛うじて凌いでいたが、じきに眠たくなってくる。
さすがに下着姿のままというのも気が引けるので、先程の大きなサイズのシャツを着ると、そのままその場で眠りについてしまった。 |