父のいない朝というのは、何もこれが初めてというわけではない。
母が急病で倒れたときや、そのあとの葬儀の運びなどでも、姿の見えない日は何度かあった。
当時は誰にも構ってもらえず寂しい思いをしたが、そんな美利も今となっては十四歳。
いつまで経っても親に縋りっぱなしの幼児ではないのだ。
とは言っても、一人親となった父を心配することは、それとは全く別の話である。
若くないんだし、夜通し仕事なんて――。
「ミトー」
ホームルーム前の教室で、机に突っ伏しながらそんなことをぐるぐる考え巡らせていると、別クラスの少女が美利の渾名を口にしながら入ってきた。
「お、白パン。おはよう」
「……!」
「痛い痛い、殴んないで」
昨日、部活動中に美利が転倒した際、誤ってズボンを引っ張られて下着を晒すという超常ハプニングに巻き込まれた杏美だった。
面白半分でからかうが、杏美にとってはそれなりに大問題だったらしく、癇癪起こしてぽかぽかと美利の頭を殴った。
ついでにテレビで見た純白の子犬の話もしたが、それ以上は何も言うなと口を押さえられる。
「そんなことより! 江塚くん、忌引で今日から何日か休みらしいよ。なんか話聞いてる?」
「えー孝馬が? 何も知らないけど……あぁ、携帯にかけても出なかったのはそれかな」
見てくれに分かりやすく首を捻って考えるが、昨晩のことしか思い当るところがない。
それも携帯電話を放置しがちな彼のことだから、特別おかしなこととは考えなかったのだった。
「おじいちゃんが急にだって」
「うっそ、あの元気なじいちゃんが?」
「七十三歳だって。まだ若いよねー」
日本の成人男性の平均寿命は八十二歳。
定年が六十五歳であることも考えると、あまりに早い訃報ではある。
何度か遊びに行ったことがあって、そのときもシャカシャカ歩いていたのが印象的だった。
近所でも相当に有名な健康マニアだったようで、ちょっとやそっと毒を盛られたくらいでは屁とも感じなさそうな人だな、と思ったのが記憶に新しい。
それが突然のことであったともなれば、今は親戚一同ばたばたと忙しい頃だろう。
何年か前に同じ経験をした美利にとって、その光景を想像するのは容易かった。
「お葬式は行くの?」
「うーん。通夜は行くと思うけど…今はそれ考える余裕ないんだー」
小首を傾げて「なんかあったの?」と問い掛けてくる杏美を「実は生き別れのお兄ちゃんがさ…」なんて適当にあしらっているうちにチャイムが鳴り、担任が出席名簿を持って入ってきた。
慌てて教室を出ようとしたところを、名簿でこつんと叩かれた杏美を見て噴き出す。
それからというもの、普段と何ら変わらない授業をこなし、給食を食べ放題バイキングのようにして平らげ、部活動ではチームメイトと練習試合。
そして杏美たちと一緒に買い食いなんかをしつつ下校。
その途中、帰り道が違うため、みんなと別れて一人になる。
真夏も近付き、日に日に日照時間が長くなってきた。
しばらく日も沈まないからと、猫やら犬やらに油を売りながらのろのろと家路を進む。
周囲はまだ明るく、この時期ばかりは小さな子供たちも時間を気にせずに走り回っているのだが、その中で美利は浮かない気分のままでいた。
父と孝馬の顔を見れず、声を聞けず、近くにいることすら叶わず。
急に独りっきりにされてしまったような錯覚…なのだろうか。
とにかく調子の乗らない一日だったと振り返る――と。
「美利」
視線をコンクリートで固められた地面に落としていたところ、前方から誰かに呼び止められた。
足を止め、かったるそうに顔を上げ、その声の主を見てはっとする。
「孝馬……」
そこに立っていたのは、他の誰でもない、江塚孝馬だった。
聞き慣れているはずの彼の声だったが、どうもいつもと雰囲気が違って、顔を見るまで誰だか判別できなかった。
まさかこんなところで遭遇するとは思わなかったため何をどう話すべきか慌てるが、まずは何も隠す必要はないだろうと思い、今回の訃報について何か言おうと考えた。
「じいちゃんのこと、学校で杏美から聞いたよ。いろいろ忙しいと思うんだけどさ、その…こんなとこでどうしたの?」
話しやすい位置まで歩み寄り、どことなく憔悴し切ったような孝馬にそう問い掛ける。
しかし孝馬は下唇を噛んだまま返事をしない。
明らかに様子がおかしい。
そう思って彼の腕を掴もうとしたところ、視界にぎらぎら光るものが飛び込んできた。
孝馬の右手に握られていたのは、刃渡り十五センチメートルほどのナイフのような形状の刃物。
驚いて後退りすると、孝馬は焦点の定まらない瞳を揺らし、支離滅裂な独り言を呟く。
「――なんで…どうなってんだ」
まるで美利がいることを認知していないような、何も見えていないような。
目の前には誰もいないと思い込んでいる…そんな口調だった。
「どうって……ってか、なんでそんなの持ってんの。未成年はそういうの持ち歩いちゃヤバイって!」
「なんでお前の…意味わかんねぇよ」
「はぁ――…? 意味がわかんないのはこっちの方だってば」
会話が成立しない。
そこには何にも例え難い不気味さが漂っていた。
美利のあわてふためく声も、今の孝馬には一切届いていないようだ。
「じいさんだけじゃ……どうして、なんでだよ」
鈍く輝くナイフを手にしたまま、見開いた双眸を両手で覆い隠し、ついには泣きじゃくる子供のように小さく蹲ってしまった。
嗚咽と異常に早い呼気だけが心情を察する手段となるが、それだけでは彼に何があったかを知るには不十分である。
「なぁ、どうすればいいんだよ。俺も、お前も…!」
「あ、あのさ。取り敢えず何があったか話してよ。じゃなきゃ何がなんだか分かんないじゃん?」
まずは話を聞きたい。
それだけの思いで彼の丸めた背に手を伸ばすが、触れる寸前、急に奇声を上げたと同時に、手に持ったナイフを乱暴に振りかざしてきた。
慌てて手を引っ込めた美利だが、鋭い刃先が掌を掠める。
あらかじめ想定していた、しかし最も起きてほしくなかった事態に目を白黒させ、痛みと驚きに小さく呻いた。
腰が抜けて尻餅をついた美利を呆然と眺めていた考馬が、何かが切れたように勢い任せに声を張り上げる。
近くで遊んでいた子供たちも、突然の出来事に泣き喚いて逃げ回った。
「お前さ、アレなんなんだよ! なんも言わねぇで家ん中に上がり込んできたと思ったら、いきなりじいさんぶった斬りやがって――親父…止めに入った親父も……」
「だから、なに言ってんのか全ッ然わかんないって!」
「んなワケねぇだろ!!」
初めて聞く、孝馬の怒声。
その体験したことのない気迫に怯み、無意識のうちに喉から骨の抜けたような呻き声が漏れる。
怖くて、悔しくて、この状況下で何かしら叫びたくて――。
声にならぬ声が引っ切り無しに零れ落ちる美利のジャージの襟元を強く掴み、この世のものとは思えぬ悲愴な怒りに狂った形相の孝馬が、考えもしなかった衝撃の一言を放った。
「お前の親父さんだよ。あいつが親父とじいさん殺したんだ、俺の目の前で!」 |