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【 3.3 壊れた音 】



「俺が見間違うはずないよな、いっつも見つからないように逃げ回ってたんだから」

 そう語る孝馬の声は、もはや懐かしむような色に変わっていた。
 美利の喉は、ほとんど声が出せない程きつく締め上げられている。

「それがだよ。馬鹿みたいにでっけー刀みたいなのぶん回してさ。有り得ねぇだろ、普通」
「そんなわけ…っ」
「ごまかすなよ!
 俺だって最初はただの夢だと思ったさ、でも気付いたら部屋中が真っ赤になってて、親父とじいさんの首が転がってこっち見てんだよ、それ見てお前の親父は黙って逃げたんだ!
 それをよ、それをお前が知らないワケねぇだろ!!」

 止まらない。
 まるで呪いのように、目を剥く少年は信じられるはずもない言葉を一息に並べ立てた。

 美利にとって、それは本当にただ悪夢に怯えただけの戯言にしか聞こえなかった。
 美利の知っている父は、蚊すら殺さぬような温厚篤実な人間である。
 そんな非現実を羅列されたところで信じられるはずがない。
 そう思えば思うほどに、自らを擁護しようとする激情に飲み込まれていくのが分かった。

 少なくとも、彼がその手に握ったナイフを振り上げるまでは。

「俺だって…俺だって分かんねぇよ」
「…孝馬」
「分かんねぇんだよ!!」
「孝馬ァ――…!!」

 鉛色のそれが、風を、空気を切り裂き、そして美利の眉間を斬り裂こうと振り下ろされる。

 断末魔の叫び声。
 その模範のような悲痛な叫び声、何かが削れるような音、乾いた銃声。
 ほぼ一瞬のうちに、それらが重なって反響し、閑静な住宅地を騒動に巻き込んだ。

「あああああ、アアァァぁ……ッ!!」

 辺りは騒然としていた。
 野次馬が沸き始めたその中心、奇妙な叫び声を上げた考馬がナイフを放り投げ、地面を転げるようにして悶える。
 そんな彼から解放された美利も、額から右頬まで走った傷から流血し、その場に項垂れたまま動かず――しかし直後、その体を何かに取り憑かれたように震わせた。
 不安から身を隠そうと、顔に覆い被せようとした掌に、ぽたぽたと真っ赤な液体が滴り落ちるのを見て絶句。
 何が起きたのだろうか――その疑問を再生させるだけの暇すらなかった。

 数秒すると、二人の元へ駆け寄る男女が現れた。
 どちらも揃ってどこにでもいるような背格好だが、その手には実弾の装填されているらしい拳銃が構えられている。
 傍から見れば映画の撮影現場としか思えない、酷く現実離れした状況だ。

 突如現れた二人組のうち、パンツスーツ姿の女が美利の前に駆け寄り、意味を持たない喚き声を垂らす孝馬に向けて拳銃を構える。
 片割れらしい男は動揺した様子で、がちがちと歯が鳴るほど震える少女の肩を、仰々しくもそっと支えた。

「大人しくしていれば、これ以上は発砲しないわ」

 拳銃を構える女が、考馬に向けてそう忠告した。
 そして美利にさっと目配せをして簡単に名乗る。

「美利さん、今朝お電話させてもらった苗田です。そっちの子は部下の芳原。
 急用ができたから探し歩いていたんだけど…少し遅かったみたいね、ごめんなさい」

 右目が開かない。
 生温い液体が眼球に流れ込んできているのが分かる。

「……撃たないで」

 女の正体が分かったところで、ほぼ反射的にそう乞う

 一緒にいると、馬鹿も呆れるような馬鹿しかやらかさなかったが、好感――恋愛感情を含んだそれは、お互い多かれ少なかれあった。
 そう、恐らくそれは、昨日の今頃までは変わらず存在していたのだ。
 孝馬が駄々を踏むように言った「分からない」も、そんなややこしい感情が胸の奥に突っ掛かっていたのではないか。
 だからこそ、美利にはそれを振り切ってしまえた彼が憎く、それ以上に申し訳ないと思う自分が情けなかった。

 自分が何も知らなかったことを思い知らされたような、漠然とではあるが、そんな気がしたからだ。

「『分かった』と言ってあげたいけど、それも彼次第ね。
 どちらにしても、殺してしまうことは御法度だから避けるけれど。よっしー、取り敢えず美利さんの止血しといてあげて」

 女の言葉に、背後の男があたふたとしているのが分かる。
 直後、ばふっと派手な音を立てて、真っ白なハンカチが美利の視界を支配した。
 それが見る見るうちに真っ赤に変色していく様を微かに開けた左目が捕らえるが、怪我をしたらしい部分を圧迫されても大した痛みはない。
 相変わらず全身の震えは止まらないが、自発的に周囲の状況を読み取ろうとするだけの余裕はできた。

(人がいっぱい)

 先程まで遊び回っていた子供たちは、自宅へ逃げ込むか、近くにいた親を盾に隠れるようにしているらしく視界に入らないが、近隣に住んでいる大人たちが揃いも揃ってこちらを見ている。
 その中には、美利と孝馬の通う中学校の制服を着た者もちらほら。
 杏美たちがいないことが不幸中の幸いか。

 続いて目についたのは、地面に放置された、血が付着したままのサバイバルナイフ。
 どうやらあれで斬りつけられたのだろうが、目の前の苗田という女が、それとほぼ同時に発砲したようだ。
 そして苗田の先で苦悶する孝馬は――撃ち抜かれたらしい左足を引き摺り、どうにか起き上がろうとするところだった。
 苗田の手の中で、拳銃が微かに揺れる。

「美利さん。あの子のこと、どうしても撃ってはいけないの?」
「――…はい」
「そう。それじゃ、私達がそれを飲む替わりに、一つだけ指示させてもらうわね」

 小さく頷いた苗田は、急に拳銃を下ろすのと一緒に、地面に落ちたナイフを拾い上げた。

「ここから逃げましょう。さ、ほら走って!」
「――!?」

 誰がどう見てもそんなことができそうもない美利に向かって、苗田はごくごく普通にそう言った。

「ほれ、早くしないとサツが来るぞー。よっしーもがんばれ! 引き摺れ! 男を見せろ!」

 膝が笑って立ち上がることすらままならないのに、なんて無茶なことを言うのだろうが。
 しかし、それについてとやかく言っている時間がありそうもないことを、美利は孝馬と見物客の様子を見て悟った。

(……お父さんに聞けば)

 生気の抜け切った孝馬と、一瞬だけ目が合う。
 互いに一言も発することはなく、ただ悲痛な面持ちのままのコミュニケーション。

(お父さんに聞けば、なにか分かるはず)

 そして彼から目線を逸らし、覚束ない足取りで前に進み出す。
 逃げるにはあまりに鈍足で不格好だが、不思議なことに、その後を追う者は誰一人いなかった。
 飽くまで予想でしかないのだが、あの場にいた誰もが『これは悪い夢なのではないか』と思い込もうとしてしまったのではないだろうか。

 孝馬がああして壊れてしまう前、そうしたように。
 この日本という国で、そんなことが起こり得るはずがないと思い込む心のままに。
 誰も覗き見ることのできない世界があることを知ろうとしない、平和ボケしてしまった己のままに。
 そして美利もその一人であることは明白である。

 だが、それを現実として実感すると、我慢していた感情が爆発し、涙が洪水と化して溢れ出てしまう。
 少し時間を置いた美利がそうなったすぐ隣で、苗田が「窮屈で息苦しい世界ね」と囁くように呟いた。
 理由こそ分からないものの、その言葉が美利の決壊しかけた脳に鮮烈に記憶されたのは確かであった。

 同時に、それが美利に向けられたものであったことを彼女自身が知るのに、ほんの数時間すら必要としなかった。





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