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【 3.4 回帰と革新 】



「入って」

 どこにでもあるような雑居ビルに辿り着くと、苗田が手招きし、血まみれのハンカチを手にした美利を中に入るよう促した。
 ふらふらとした足取りで、黙って頷き、それに従う。

 あの地獄絵図さながらの奇異な場から逃げているうち、美利は妙な落ち着きを取り戻していた。
 質の悪い映画を見終わったような感覚に近いだろうか。
 ともかく、目に見えない何かに対する失望感だけははっきりとある。

「あんなことに巻き込んでごめんなさい」

 昇降機のボタンを押し、苗田が言う。

「ここの四階に、私たちのオフィスがあるの。
 勝手だとは思っているのだけれど、そこで詳しいことを説明させてもらえないかしら?」
「……はい」
「そう、ありがとう。その怪我も早く手当てしなきゃね。血は止まったかしら?」
「………はい、一応」

 苗田のよく分からないタイミングでの“ありがとう”に違和感を覚える。

 父と同じくして働いているらしい、この苗田という女は、一体何を考えているのか。
 もしかしたら、腹の底でとんでもなくくだらないことを目論んでいるかも知れない。
 警察でもないのに、白昼堂々拳銃をぶっ放すような輩だ。
 有り得ないとも言えないだろう。
 その逆もまた然り――まぁ、恐らく悪い方には転ばないだろうと思う。

 だが、それも酷い孤独感に苛まれる今の美利にとっては、どうでもいい些細なことだった。
 怒りに狂った考馬の姿が一瞬たりとも脳裏から離れず、いつもなんとなく眺めていた父の背が徐々に遠ざかっていく……単なる思い込みとは取れない、絵に描いたような独りぼっちになる感覚。

 ただ、虚しい。

 やがて、乗り込んだ昇降機が動きを止め、四階に着いたことを鈴の音で知らせる。
 自動式のドアが開くと同時に、何故か隅っこに身を潜めていた芳原がすっと腕を伸ばし、操作板の“開”と書かれたボタンを押した。
 事細かに気を利かせる男であるらしい。
 ここでも苗田は「ありがとう」を欠かさなかった。
 ごく普通の使い方だったためだろうが、先程の浮足つかない感じはない。
 これこそ些細なことだが、どういうわけか異様に気になった。
 しかし、それも彼女に肩を支えられたときには、既にどこかへ飛び去ってしまっていた。

 静かに開いたガラス製の自動扉から一歩踏み出し、観葉植物などで質素に飾られた一室を見つけ足を止める。
“独立行政法人『御の字』”と書いてある表札に目がいく。

「思ったより普通でしょ?」

 美利の言葉を代弁した苗田が、ドアの真横に設置された機械に顔を近づける。
 その直後『網膜認証、完了しました』という電子音声が流れるとともに解錠、これまた中も普通の装いをしたオフィスに案内された。

「どうぞ、そこに掛けて。で、救急箱は――と…」

 黒革張りのソファに恐る恐る腰を掛ける。
 予想以上にふかふかだ。
 苗田は近くのデスクに孝馬の持っていたナイフを置き、向かいの棚から救急箱を探り当てる。
 中から半端に多いガーゼと大量の包帯を取り出し、俯き加減の美利に手当てを施し始めた。

 傷に何かが触れるたび痛みが走るのを声を殺して堪え、それを表に出さぬよう、小さな声でぽつりと問い掛ける。

「用事があるって、さっき言ってましたよね。それ、お父さんのことですか」

 苗田の手が一瞬だけ止まる。
 すぐに作業を再開し、ええ、と短く答える苗田をじっと見る。

「やっぱり、人を殺してた…ってことですよね」
「……あの子の言っていたこと、全部信じるの?」
「あいつアホだから、嘘がつけないんです。だから――」

 直感だった。
 だがそれは、苗田の様子を見るだけでも、確信とするには十分過ぎるものだったように感じる。

「……勘がいいのね」

 少し大袈裟に巻かれた包帯が、留め金によって固定される。
 ハサミや余ったガーゼなどをしまい終えた苗田が、どことなく困惑したような、しかし何かを固く決意したような、多少の不安を映した双眸を美利に向けた。

「昨晩あったことは、さっきの男の子の言っていた通りよ。
 あなたのお父さんは私たち…国に雇われた殺し屋の一員として、あの子のお祖父さんを処理しに行ったの。
 その際、間を割って入ってきた、あの男の子の父親まで殺してしまった――不意か故意かは分からないけれど、ね」

 そこまでは、勿論なんとなくであるものの、知りたくなくとも分かっていたし、覚悟もしていた。
 だが、そういうことを期待していたのではない。
 美利にとっての本題は、もはやそこにはなかった。

 苗田が話すのを待てず、美利から包み隠さず尋ねる。

「――お父さん、どこにいるんですか?」

 核心に迫る一言。
 それを受けた苗田は酷く驚いたようだが、この展開を予想していたのか、すぐに小さく頷いた。

「…案内しましょう」

 苗田は悲愴な表情を浮かべて目線を逸らし、ゆっくりと小さな丸椅子から腰を上げる。
 それを合図に、やはり部屋の隅に潜んでいた芳原が小走りで駆け寄ってきて、おどおどしつつも、立ち上がろうとした美利の補助に回る。
 遠慮がちに頭を下げると、芳原も同じようにし、再び元の位置に戻り、美利と苗田の様子を横目に眺めるようにした。

 このとき、嫌な予感というのはとうの昔に通り過ぎており、どちらかと言えば安堵を得るような、安定に向かう感覚の方が大きかった。

“休憩室”と書かれたドアの前で、苗田が一度振り返り、美利の心情を探るようにして一言添える。

「私、ここの責任者なの。
 だから、何をどう思ったとしても、私以外の誰も恨まないと約束してもらいたいのだけれど」

 すでに彼女も隠すことをやめたらしい。
 その言葉に黙って頷いて見せると、また「ありがとう」が返ってきた。
 このとき美利は、それが感謝の意でないことを初めて悟る。

「あの、代わりに一つだけお願いしてもいいですか」
「――?」

 懺悔。
 罪償えぬ者が口にする、儚く虚しい言葉。
 その意味を深く理解するまでは至らないが、彼女の“ありがとう”がそういった意味を含むものであるのだろうと、美利には感覚的に悟った。

 だから、願うことにした。
 頼ることにした。

「学校・・卒業したら、ここに来てもいいですか。お父さんと同じように働きたいんです」

 ドアノブを握る苗田の手に力が込められる。

「お願いします」
「…ええ。あなたが本当にそれでいいのなら、私はいつでもここで待ってるわ」
「ありがとうございます――苗田さん」

 苗田は、今にも泣きそうだった。
 それを隠すようにドアを開け、陰に隠れると、ごめんなさい…ありがとう…と頻りに呟き、やがて啜り泣き出す。
 ティッシュ箱を抱えた芳原が慌てて駆け寄って来るのを見、美利は部屋に入った。

「――よっしー」

 美利が部屋の中央まで向かったのを確認して、音を立てぬようドアをそっと閉める。
 化粧が落ちるのを気にすることもなく、ちり紙で涙やら鼻水やらを拭い、鼻声のまま芳原を呼ぶ。

「美利さんがいるうちに、代実さんに来てもらえるよう手立てしてもらえる?
 あぁ、やっぱりしばらく時間を置いてから来てもらえるようにお願い」

 恐ろしいほど静かな別室の美利を案ずるように囁く。

「気持ちの整理が必要だと思うから…陸彌さんの死化粧は、そのあとでも十分でしょう――」





 二〇二四年七月十日、午後六時三十分。
 一時安置された物言わぬ父と顔を合わせた美利は、声も出さず、涙も流さず、ただひたすら無言のまま二時間をそこで過ごした。





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