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【 4.1 相違、微々 】



「……この部屋か」

 部屋に転がっていた黒いキャップ、昨日も着た赤いTシャツの上に、柄の入った白い半袖のパーカーを羽織り、カーキの半ズボンと赤いビーチサンダル。
 そんな近所を徘徊するときのみ通用するような格好の少年は、“7022号室、棚の上、ナイフ”と書かれた小さな紙切れを手に、小奇麗なマンションに上がり込み、今まさに七〇二二号室の真ん前に立っていた。
 透明ビニルのガムテープに“長束”と書いただけの質素な表札が、眉を顰める由乃を物言わず出迎えている。

(異性の自宅訪問だってのに、こんなにワクワクしないのもそう経験できないかもな)

 ガサツさが滲み出ている表札から視線を下に滑らし、電子チップのスキャニング機器を見つける。
 そこへ、ラスター本人から預かったカードキーを翳すと、二重ロックがあっさりと解除された。

「まじで開いた……。適当に偽物持たされたかと思ったんだけどな――」

 絶対安静を守るにあたって、退屈凌ぎに悪戯でも仕掛けているのではないか。
 ラスターからのお遣いを頼まれたときに、九割以上の確率でそうだと踏んでいたのだが、そうやらハズレだったらしい。
 礼儀として「お邪魔しまーす」という挨拶だけは欠かさずにドアノブを引いて入室。
 そこで目に飛び込んできたのは、思いのほか生活感あふれる空間だった。

 玄関に唯一放置されている便所サンダル。
 近所に出掛けるときにでも履くのだろうか、使い古した感がありありと分かる。

 廊下を歩くと開け放ったままのドアから覗ける、ごくごく普通の洗面所。
 そこに置かれたメタルラックの上には、量こそ少ないものの、化粧水らしき液体の入った瓶が複数見受けられる。

 必要最低限の調理器具が積み重なって保管されているキッチン。
 調味料も本当に必要なものしかないが、なんの問題もない、常識の範囲内だ。

「んー。まるで普通の人間の家だな。もうちょっとこう…」

 破天荒なものを予想していた。
 普段の彼女のイメージから想像していた部屋模様は、もっと殺伐として危険物に溢れているか、或はその逆で、無数の無意味に可愛いもので統一されているかのどちらかと思っていたのだが…違った意味で期待外れである。

「まぁ、これはこれで意外な一面か。さておき、と。頼まれたブツは…棚の上ね」

 リビングに設置されたキッチンから目線をずらし、テレビや冷蔵庫、パソコン、座椅子、その他諸々を順番に一瞥
 そこで衣類棚を――その天板の上に無造作に置かれたナイフを見つけて手にする。
 専門店で売られている、特に変わった特徴のない護身用のもののようだ。
 刃を覆う革製のケースに書かれた“”というのはこのナイフの名前なのだろうが、由乃にはそれが漢字であることしか分からず、読み方においては「魚っぽいな」程度のことしか見当がつかなかった。

 刀を取りに行かなきゃ。
 ラスターのその一言を聞いたのが、このお遣いの発端である。
 昨晩の騒動で、路地裏に放置してきてしまったラスターの得物である大刀。
 人の目につかぬようにしてはおいたが、早く回収しなければならないのは分かりきっていたこと。
 しかし、今の彼女の置かれる状況を見ると、本人に任せるわけにもいかなかった。
 かと言って怪我人一人に留守番を頼むのも…と思い悩んだのだが、彼女にとっては大した問題ではなかったようだ。
「刀を拾うついでに、片手でも扱えるナイフが自宅にあるので、持ってきてもらえますか?」と追加注文を食らい、現在に至るわけである。
 ラスターが運び込まれたことで家族分の食料が尽きていたため、ちょうど良かったといえば都合がいいだろうか。

 カバンを持ち歩いているわけでもなく、かと言って手に持ったまま街中を歩くのも少し物騒なため、ナイフをベルトに括りつけることにした。
 だが、これがなかなか上手く取り付けられず、体を捩って四苦八苦していたところ、小さな仏壇が視界に入ってくる。

 焼き菓子がちょこんと供えられた横に、これまた小さな写真が立て掛けられている。
 気弱そうな――しかし大柄な男性と、その横で快活に笑ってピースサインを繰り出す女性。
 そしてその二人の間、これも元気溢れる笑顔を浮かべた少女。
 幸せそうな三人の姿が、在って欲しくない場所に佇む。

“私も似たような境遇なんですよ”

 何を考えて言ったのだろうか、ラスターのそんな言葉を思い出す。

「……似てるとこなんて、親が死んじまったってだけだろ」

 父の運転で行った、夏休みの家族旅行。
 助手席に座る母も、楽しげにしていた。
 普通の、どこにだって有り得ていいはずの、ごく普通の楽しい思い出。
 しかし、家族五人が乗ったそれを、不慮の事故が襲った。
 皆同じように浮かれていただろう高速道路で起きた、観光バス、大型トラックなどを含む、計九台による玉突き事故。

 凹んだ自分の胸元、拉げた由宇の腕、額から流血してぐったりする由唯、腹にハンドルを埋めた父、肩に千切れたシートベストを垂らし、フロントガラスに頭を突っ込む母、血、血、血。
 鳴り響くクラクションを耳にして恐る恐る目を開けたとき、そんな恐ろしい光景がそこにはあった。
 両親を含む犠牲者が四三人にも上ったその事故は、オーバーペースのままカーブに差しかかったトラックの横転が原因だった。

 予期せぬ、突然の両親との別れ。
 だが、その絶望感も、生き残った兄と姉の存在が払い除けてくれた。
 由宇はいつも頼りないし、由唯に至っては言葉を交わすこともできなかったが、少なくとも肉親が一人もいないという状況だけは経験せずに済んだのだ。

 だが彼女は、自分と同じ道を歩んで来れたのだろうか?

「――あいつ、俺にこんなもん見せて良かったのか」

 彼女は“ひとり”だと言っていた。
 それがどれほどの孤独感なのか、由乃にはいまいちピンとこない。
 だが、彼女が望んで孤独を選んだわけでないことは分かる。

 無垢な笑顔を浮かべる親子の写真。
 思い出したくもないトラウマと向き合うためか、はたまた何かしらの未練を表すのか…どちらかは知れない。
 でも、きっとどちらかだろう。
 首を突っ込む必要もないのに、気付けば理解できそうでいて程遠い場所にある、分厚い壁に覆われた彼女の感情を闇雲に探っていた。

 用が済んだら、さっさと食材を買って大刀を拾いに行くつもりだったのだが、写真一枚見つけただけで随分と時間を食ってしまっていた。
 どこに置かれているのか分からぬアナログ時計の刻む六〇のテンポが二〇〇回ほど鳴った、その時。

「ミトー! 電話だけじゃいまいち分かんなかったから、直接話しに来たよー! 開けろー!」

 がんがんがんッ!
 容赦なく玄関ドアを殴りつける音が静かな部屋に響き渡る。

「みと…? ラスターのことか?」

 出るべきじゃないよな、変な勘違いされそうだし。
 別段取り乱すことなく冷静にそう考えたが、出ないなら出ないで家主に伝える意味でも、訪問者の顔くらい見ておこうと立ち上がる。
 インターホンカメラの覗き方がいまいち分からなかったので、玄関ドアの覗き窓から様子を見ることにした。

 肩の辺りで切り揃えられた黒髪の若い女だ。
 歳は…ラスターと同じくらいか。
 首からネームプレートのようなものをぶら下げている。
 腕に抱いた大量のコピー用紙はバラバラで、頬に貼った絆創膏から擦ったらしい生傷が顔を出し、カバンを提げた右肩は服がやや肌蹴ていて、下着の紐が丸見えである。

「ピンク……落ち着きなさそうだな」

 ちゃんと色を確認して、全体的な印象をぼそりと呟く。
 するとその瞬間、外の女が「ん!?」と覗き穴に顔を急接近させてきた。
 思わず驚いて仰け反る。

「男!」

 ごォん!
 再び殴ったような音がする。

「空き巣? それともミトの彼氏!? どっちでもいいから、取り敢えず開けなさーい!」
「地獄耳…っていうか、やっぱ勘違いするもんなんだな」

 状況が状況だからおかしくもないだろうが、どうも感心できなかった。
 しかしこのまま放置したところで、この小煩そうな女が大人しく帰るとも思えない。
 面倒事に発展するのを重々承知で、渋々ドアロックを解除。
 途端、勢いよく開いたと思うと、女の腕の中にいた数百枚にのぼりそうな印刷紙が、ばさばさと音を立て玄関を真っ白に埋め尽くした。
 ……やっぱり落ち着きなさそうだ。
 条件反射で床に落ちる前の紙を手に取った由乃が、女に再び視線を戻して最初に見たのは、その腹部で揺れる“明陽社編集部 渡會杏美”と印刷された、写真付きの社員証だった。

「――渡會杏美です。よろしく、ユノくん」





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