この国は、いつも雑踏に溢れている。
もう何十年も昔になるらしいが、今以上に世界は人間に溢れていた。
ヒトという一種の生物が増えすぎたために、その周囲に暮らしていたもの達は環境変化に順応できず息を絶やし、野中に潜んでいたもの達は逆襲の如く人里を襲っては、食われるわけでもなく殺処分されていった。
人は人を食ったりはしない。
もしかしたら言葉という超文明が生まれる前、或はそれが誕生した後も、一部では食っていたかも知れない…そんな話は小耳に挟んだことがある。
その行為自体を呼ぶ単語が存在するくらいだから事実存在していたのだろうが、それは一部に限る奇異な生物達のことを指すに限る。
食人がどういったものなのか興味があるのならば、試しにやってみるのも悪くはないが――その結果どうなったとしても、私の知ったことではない。
ともかく、その文化の有無はさておき、人間に感情がある限りは“共食いの果てに人類衰退”なんてことは有り得る話ではない。
ここまで栄えてしまっては、そんな危険な状態は尚更回避するだろう。
「大根、育ててるんですよ」
「大根?」
「ええ、ベランダで。滅多に使わないので、一面に砂利と土を敷いて、サラダ用の小さな大根を育ててるんです。
これが信じられないくらい簡単に芽が生えて、おまけに瞬く間に成長して、挙句ほかの芽の成長の邪魔をしちゃうんですよねぇ」
だからこそ、時にはそいつを間引いてやらなければならない。
「まだ小さいうちに引っこ抜くのはもったいないと思うんですけどね。
でもそうしないと全部ダメになっちゃうので泣く泣く、です」
管理して、調整して。
その役を買うべき存在がいなければ、どの世界も円滑に循環することが不可能に歩み寄る。
そのために戦争を起こそうが、法律を弄くって子供をつくるよう半強制させようが、力あるものの決定は様々な事柄――大抵は金が絡むようだ――を巻き込んで具現されるものであるのだ。
「家庭菜園か。楽しそうだね」
そう言って隣で歩きながら、寝癖のような跳ねっ毛の青年が白い青空を眺めて笑う。
その青年の両手は、彼の妹の乗った車椅子をゆっくりと押している。
時に段差で揺れることがあっても、車椅子の女はただ真っ直ぐに空を見つめ、時折近くを通る子供や犬猫を目で追っていた。
「あとは気候なんかも操れれば、楽に丸々太ったのが採れそうなんですけど」
「それは個人レベルで考えると難しいかな。そういう薬剤はあるけど、散布するのにはお金かかるだろうしね」
「うーん…祈祷師さんでも雇ってみますかね」
「そ、それもお金はかかるんじゃないかな…」
「やれやれ……どれもこれも思った通りにはなりませんね」
乾いた声で笑う。
この国には“弱肉強食”という言葉が存在する。
読んで字の如く、強いものが自身の血肉とすべく弱いものを食らうことだが、そこにも大どんでん返しというものが隠れていたりするもの。
怪我した左手の神経は、指先を見る限り、どうやら無理をすれば使えなくもない。
それだけを確認し、虚ろな瞳に空を映す女に視線を下ろす。
「ユイさん、楽しそうですね」
「最近は家に籠りっぱなしだったから余計にだろうね。
それにしても、ラスターさんに由唯との散歩を切り出されるとは思ってもみなかったなぁ」
「はは。お節介は嫌いじゃないのです」
由唯の瞳を覗き込んだとき、そこには何も宿っていないような気がした。
目が合っているはずなのに、対面している人間があたかも存在していないような視線、その空虚感。
何を考えているのか、そもそも彼女に思考という感覚が芽生えているのかも分からないのだ。
それは言語を知らない動物よりも原始的で、だからこそ理解できない無感情さだった。
それでも彼女のことを、一寸たりとも気味悪いと感じなかったのは何故か。
理由はすぐに分かった気がした。
「――似た者同士、波長でも合ったんでしょうね」
「由唯と…ってこと?」
「ええ、きっと家の中でじっとできないタイプなんですよー」
誤魔化すようにはしゃぐ。
いや、別に間違ったことを言ったわけではないと思う。
ただ敢えて口に出すのが滑稽で、今までの自分の行動を全て誤りであったと否定してしまうような気がして怖かった。
そう、怖かったのだ。
間違いなく迷っていた。
だからこそ、あの男の言葉が重く圧し掛かってきて、何が起きても父の宿るその大刀を振るうと決意したにも係わらず、揺らいでしまった。
思い返すだけで、他人を拒絶し、隔絶するように遮断してきた壁が、弱く、あまりにも脆い音を立てて崩れていく。
大切な人の死が、私のことを狂うほどに馬鹿に仕立て上げた。
父が死んだ。
正確に言うならば、国のために生き、国によって殺された。
その末路が、善意による殺意を糧にした者の歩むべき道だと、“美利”は考えられなかった。
だからこそ選んだ、父と同じ腐れた世界に引かれたこの一本道。
戻りたくてもそれができないから、こうして自らの足を動かし、歩いて、もがいて、寄り処のない感情を抱えて苦しんできた。
父によって壊された、江塚孝馬という一人の少年の平凡な日常。
壊してしまったがために壊された、長束陸彌という一人の男の短い一生。
誰から憎まれ、誰を憎めば良いのか。
土色の肌をした父の亡骸の前で、理不尽な虚しさを晴らすべく思考を悔恨に委ね、あるはずのない答え合わせを繰り返したのを思い出す。
だが、当時はしゃんとした一人の人間として、その答えを導くことができず、縋りついたのが――この国だった。
そこに人がいるから、人々は人間としての生活を営む。
感情という世界最強の兵器をその身に秘め、愛することと憎むことの快感を経て、あらゆるモノを求めてしまった。
格差を生むために作った金、それを手にするための権力と技術。
どうすればその全てを掌握できるか――強欲に身を焦がした結果、やがてみんな賢くなって馬鹿になった。
生きようとする本能に倣って、生きようとする理性に倣って、自然と潰えようとした命を先延ばし、先延ばし、先延ばし…そうして息のしにくい世の中を育ててしまうことを悔やむのだ。
馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿、どうしてこんなにも馬鹿なんだ。
こう思ってしまう脳味噌を、片っ端から削ぎ落せれば楽なのに。
自分の感情を悔やみ、攀じれた国を恨み、気付けば何人も殺していた。
羨んでいた父と同じ道、同じニオイ、同じ感触、同じ快楽、同じ罪悪感。
どんどん世界が歪曲していくのが怖いけど楽しくて、でもこんな惨めな姿を誰にも晒したくなくて――必死になって隠していると、守り抜きたかったはずの自分が、やがて迷子になってしまった。
決して信じたことのない国に従事し、父の遺志を知ることもなく跡を追う。
最初の頃はそれだけで十分だったが、ここ最近はどうも醒めてしまって張り合いがなくなっていた。
「いい加減オトナになれよ」と、見えることのない誰かさんに諭されているような、そんな気分。
くすぐったくて、耐えられなかった。
「私、随分前に頭のネジが壊れちゃったんですよ。それからというものの、何をやっても楽しくて仕方がなくて」
由宇は、小さく声を上げた由唯の頭を優しく撫で、怪訝にすることもなく耳を傾けた。
「でも、良いことばっかりじゃなかった。
嫌なことばかりでもなかったけど、それに気付いてからは、自分が何なのかを考えるようになってまして。
答えは出ませんが、取り敢えず正常じゃないんじゃないかってことだけは、私の中で満場一致でした」
くるくると、木陰の下で回って見せる。
舞うには拙く、転ぶにはしっかり地に足が着いている。
その様子を眺める由唯の瞳に、初めて言葉の代わりが浮かんだ。
上手く言い表すことのできない声を上げる由唯を見直り、“ラスター”は噛みしめるように言う。
「あなたは分かってくれるんですね、ユイさん」
風に前髪が揺れ、合間から覗けた女の顔には、またと見ることのできないだろう、困惑を含んだ微笑が咲いていた。 |