「――もしもし。近江川っす」
マンションをそろそろと抜け出した由乃は、外の混乱に度肝を抜かれた。
自分の放った銃声のあと、真反対の方向から微かに似たような音が返ってきたのを小耳に挟んでいた。
そのたった二発の発砲で、夕刻の東京はパニックを起こし、人に溢れてしまっていたのだ。
胸元に隠してある拳銃が間違っても見えないよう、スーツのボタンが閉まっていることを確認して、ラスターに指定された病院裏に向かって走り出す。
その途中、オフィスからかかってきた電話に出ると、驚くべき人物の声が耳に届いてきた。
『お疲れさまです…芳原です』
幽霊みたいな、ボソボソと小声で喋る男の声。
極めて聞き取りづらいものの、その正体があの芳原だと知っては納得できてしまうところがある。
「ロクさんから電話なんて珍しい。社長は?」
『ご察しの通り、少し前に出て行かれました…。どうやらラスターさんからの連絡だったようで…。
一応、近江川くんにも伝えておこうと思って電話しました』
彼は滅多に声を発することがない。
というのも、近くに誰かがいると極度の緊張状態に陥ってしまうらしく、ちょうど今のように部屋に他人のいないとき以外は喋ることができないためだ。
『どんな話をしていたかは、盗み聞き程度ではよく分かりませんでしたが…。
社長とラスターさんには、こう…昔からいろいろあるんです』
「あぁ…ほんのちょっと前にラスター本人からそんなこと仄めかされたな」
重い話だった。
口調のせいでそんな風ではないような錯覚を覚えたが、その光景を想像しないよう努めるのに必死だった。
「――そういやロクさん、そんな感じだけど古参メンバーだったっけ?」
『ええ、一応…初期人員じゃないですけど、割と長いです…』
「なら一つ聞きたいんだけどさ」
ラスターから渡された画像に写っていた、肩まで伸びた黒髪の男の顔を思い出す。
記載されていた名前は小さく潰れてしまって読めなかったが、御前と似通った体格の男だった。
彼女は過去を語るうちに、殺しに心酔するまでに抱いていた、どす黒い感情の存在を口にした。
それを今になって思い出したとも言っていた。
「ラスターに同い年くらいの男友達とかって、いる?」
意味不明なメール、大怪我、一切を隠してきた過去の吐露、父の最期、自らの狂気を薄ら笑う誰か――そして、あの男の画像。
どよめきに埋もれる街の中、それに掻き消されそうな声量で、芳原が答えを呟く。
『江塚孝馬…ラスターさんの同級生、かもです…』
「同級生? 他にはいないのか、もうちょっと親しい感じの」
『近江川くん…どこで彼を知ったのかは、僕からは訊けません。
けど、もしラスターさん本人から直接話されたとしたのなら――ラスターさん、彼を殺しかねない』
「はァ…?! どうして!」
人と人の合間を縫って進む。
しかしその視界に、いつもの異様な容姿を捨てた女が飛び込んでくる気配はない。
正体不明の焦りばかりが募る。
『すみません、ボクには手に負えない次元の話だから…とにかく、そういうことなんです』
その時だった。
一面ガラス張りの建物の入口、外に出ようと我先群がる決死の人々の手前でうろたえる渡會を見つける。
混沌とした空気に包まれた街に静かに佇む彼女の首に提げられるのは、見慣れたネームプレートと大袈裟なカメラ。
ほんの十数分前まで、何者かに狙われているラスターと一緒に行動していた彼女。
人混みに紛れているとはいえ、目をつけられていないワケが――。
彼女の細い指がカメラの絞りに触れる。
その遥か頭上、暗い雲から顔を覗かせた太陽光を受けて、黒鉄がギラリと輝くのが見えた。
――直後、芳原の世界の終わりみたいな声が由乃の脳を支配する。
『このままじゃ…無意味に陸彌さんを追ってるだけだ……』
「今日はいろんな人と会ったから疲れちゃったかな…?」
空が赤く反転を始めると、それまで外の景色を凝視していた由唯は、上半身をやや捩って、うとうとしていた由宇に助けを求めるような視線を送った。
無論、その間に言葉はない。
生まれたときから一緒に過ごしてきた、時を経た感覚で繋がっている。
そんな言葉を超越した意志の疎通――というのは大袈裟か。
兎にも角にも、夜の気配に怯え切る妹に寄り、その痩せ細った体を抱えて部屋へと連れ戻してやる。
窓辺に干しておいたタオルを手に取り、体を拭いてやるために風呂場へ向かうところで思い出す。
「あれ…ラスターさんの…」
由乃が持って返ってきた、あの大きな刀。
確か由唯のベッドに立て掛けて置いたはずなのだが…。
熱めのお湯をぎゅっと絞り、部屋に戻って確認してみるが、あの巨影はどこにも見当たらない。
「うたた寝してる間に誰かが持って行ったのかな…気づいたら由乃もいないし」
由乃の所在が分からないのは日常茶飯事だ。
しかし、今日はいつもと違う時間を過ごしたせいもあってか、なんとなく落ち着くことができない。
「――ラスターさんのこと、怖くなかった?」
“似た者同士”。
蝉すら嫌がる暑さの中、慣れ合いと駆け引きするような口調で彼女は言った。
見た目も性格も体の機能も、そのどれもが真反対に見える二人の共通点。
探そうと思えば思うほどに霞んでよく見えなくなるが、彼女に対する由唯の静寂のような心境は手に取るように分かった。
「兄ちゃんはね、怖いってことより興味が先だったかな」
デタラメを取り繕うような、わざとらしい支離滅裂な言葉。
どうしてそこまでして何かを隠し通そうとするのか。
気づけば、そんな彼女の心情を覗き見ようと試みていた。
自由を売り払っただけの殺し屋。
由乃が時折、自分のことを嘲ってそう例えることがある。
そしてその中でも、特に浮いた存在であると彼女の名を挙げていた。
その判断基準がどういったものなのかは知らないが、実際に会ってみて、なんとなくだが弟の言いたいことが分かった。
不自由に囲まれた環境にぽつんと孤立する一匹狼。
そんな彼女から、なかなか目を逸らすことができなかった。
恐ろしく適当で、恐ろしく常識的。
その不安定な均衡を保ったラスターという人間が、由宇の目にはどうにも寂しげに映って仕方なかったのだ。
「一人でいるのが楽しいのは全然悪いことじゃないけど、本心は違うのに、そうやって思わせるのはいけないよね。
まぁ、ただの勘違いだったんなら、それはそれで兄ちゃんらしいでしょ?」
言葉を発せない妹に向けた独り言。
由乃には言えないような情けない話も、こうやって聞いてもらうのが日課のようなものだった。
もちろん、反応なんて期待していない。
単なる独り言なのだ。
聞いてもらえるだけで、それだけで良い。
しかし、いつもなら兄のこんな戯言を子守唄に眠るはずの由唯も、昨日までの由宇の様子と違うのに気づいたのか、身を捩り、硬直して上手く動かせない唇を閉じたり開いたりして、呻き声に僅かな抑揚をつけ、兄の独り言に応えてみせた。
言葉は喋れないが、その意味は理解しているのか。
家族としての時間を経た二人の間には、これだけでも十分な会話が成立していた。
「…きっと、由乃も同じこと考えてるんだよね。
あいつはいつだって『面倒臭い』とか『かったるい』とか言いながら、根っこは見て見ぬフリできない不器用さんなんだ。
生まれてからずっと、そうやって俺とも由唯とも付き合ってくれるようなやつなんだもん――今回のことも、あーだこーだ言ったって見過ごせなかったんだろうね」
浮き出た肋骨を覆い隠すように、蒸しタオルを使い、慣れた手つきで荒れた肌を拭いてやる。
その間も頻りに声を上げる由唯の髪をそっと撫で、次第に暗くなる景色を眺めながらぽつりと呟いた。
「俺も、いつまでもこんなんじゃダメだね…」 |