舞台設定 登場人物 本編小説 他要項 トップページ
【 5.5 痛 】



 霞み始めた視界に映る街並みの中を、女は息を荒らげながら走り抜けていく。
 噴き出しこそしないものの、絶えず左肩から流れ出る血を止めようと右手は患部付近をきつく締め付けていた。
 その手に握られたナイフを伝って、柄に合わない可憐な純白のワンピースが赤く汚れていく。

 当ても無く周囲を駆けずり回っていると、喧しく鳴き続ける蝉の声に埋まる、大きな杉並木が目の前に広がった。
 一体どこに出てしまったのか――舌を打ち、車の往来の激しいその大通りを右方向に進む。
 擦れ違う人々が血塗れの女を見、金切り声を上げて飛び退くのを良いことに、勝手に開けていく道をひたすら突き進み、しかし曲がり角から不意に飛び出してきた男の存在に、研ぎ澄ました五感が鋭く反応する。

 間髪入れず繰り出された蹴りを咄嗟に構えた両腕で受けると、反動で互いにその場でふらつくた。
 すぐに体勢を持ち直した男が、左手に持ち替えたナイフを振り翳してくる。
 それも既のところで懐に潜り込んで躱し、襟元を右手で掴み、足を引っ掛け――力一杯アスファルトに叩きつけた。
 一瞬、肩がおかしな方向に向きかけたが、どうやら無事のようだ。
 すぐさま、鈍い音を立てたまま身動きを取らなくなった男の胸部に目掛けて刃を突き立てようとするが、寸前で鳩尾を蹴り上げられ狼狽。
 辛うじて膝を折ることもなく済んだものの、酷く咳き込む羽目を食らう。
 その間に、男も呻きながら立ち上がる。

 数秒のうちに静まり返った大通り。
 行き交う老若男女は、常人離れした二人の取っ組み合いを呆然と眺め、次第にその危険さを感じ取った様子で逃げ惑い始める。
 そんな当然の反応に見向きすることもなく、青年が問いかけた。

「……今のなに? 柔道の技か何か?」
「うん、たぶん。前回のオリンピック流し見してて気に入ったやつを、見様見真似のシャドー柔道で習得してだね――」
「ああ…もういいや。そんな適当なのにしてやられたと思うと情けなくなってくる…」

 言って、青年は後頭部を触る。
 その感触が気味悪かったのか、うんざりしたような表情を浮かべた。

「うわ…裂けてる」

 戻した手には、道に落ちていた小石に打ち付けたのか、じわじわ滲み出たような鮮血がねっとりと付着していた。
 それを見つけた女が、してやったりと笑む。

「やっと怪我らしい怪我した。それで八年前の私の右目とお相子だ」
「…冗談。あん時そっちの社長さんに足撃ち抜かれたよ、俺」
「あれは苗田さんが勝手にしたことだし、そもそも私の直接の上司ではないし。だから私からのお返しはまだそれだけ」
「めちゃくちゃだ……」

 どうしても傷口が気になるらしい。
 頻りに左手で触っては「いってー…」と痛がるのを繰り返している。
 怖いもの見たさでそうしたくなる気持ちは分からなくもないが、傍から見ると少し近寄り難い。

「…じゃあ、アレだ。その口ぶりだと、もっとおっかない怪我させられる予定だってことだよね?」

 敢えて自ら宣言する必要が省けた女は、にんまりと笑って真っ赤に染まった左肩を指差した。

「もちろん、最低限コレくらいは」
「ハハ…ですよね」

 相変わらず気怠そうに落胆した青年が、動く。
 駆け出したその次の挙動を見極めようと、女の顔に埋まった眼球がぎょろぎょろと働き――右側から突き上げられたナイフに意識を絞る。

「だったらその前に、生きてる右も戴いちまえばいいってことだ!」
「――それは勘弁…ッ!」

 青年の両腕を添えた一突き。
 無茶だと感じながらも、自由の利く右腕一本で支えたナイフを交差させ弾こうと試みる。
 一瞬こそ勢いを殺せたものの、やはり力任せに振り翳されたそれを止められるはずもなく、これでもかと握り締めていた得物が手から放れる。

 鈍色を煌かせて宙に舞うそれを横目に見て、瞬く間に血の気が引いていく。

 まずい――右手だけは死守しなければいけない。

 その判断に対して無意識に動いた左腕が、青年の振るうナイフと自らの体の間に割って入るとほぼ同時に、そこへ冷たい異物が入り込んでくるのが分かった。
 痛みを感じる前に振り解こうと、身を捩り、左脚で青年のナイフを持つ側の肘に蹴りを見舞う。
 すると反対方向へと歪曲した肘から「べきん」という鈍い音が鳴り、青年の呻き声が聞こえた。
 今なら逃げられるか――凶器から青年の手が放れたのを確認し、蹴りの勢いのままうつ伏せに倒れ込む。
 全身を走る激痛と出血の影響で思考回路が麻痺していくのを感じつつ、とにかく身を守るためには得物がなくてはならないと、左腕に突き刺さったままのナイフを引き抜く。
 あまりの痛みに、痛覚が正常に機能していないような錯覚さえ覚えた。

 激しく消耗し、疲労から痙攣を起こし始めた右腕を叱咤して体を起こす。
 もはや何のためにこんな死闘を繰り広げているのか分からなくなっていたが、死ぬかも知れないという恐怖感には打ち勝てず、本能的に肢体を動かそうと努力した、その矢先のことだ。

「肩、まだ動くんだ」

 背筋も凍るような、危険な言葉だった。
 走り出す間もなければ、振り返ることすら許されず、四つん這いの状態まで持ち直したところを跨られる。
 重さに耐え切れずその場に潰れると、ガタの来ていた左肩が、再び引き裂けんばかりの痛酷に悲鳴を上げた。
 何が起こったのかは分からない。
 よく分からないが、肩からがりごりという、骨と何かが接触するような嫌な音が聞こえる。



 痛い。



 貪るように肉が抉られていく違和感に、狂った叫び声を喉から絞り出す。
 すでに指先は動かず、腕が繋がっているのか、はたまた切り離されてしまったのか、それすらも感じ取れない。
 とにかく、気が狂れるような痛撃を身に受けているらしいことだけ察知し――再び恐怖が噴き出した。

 もしかしたら今度こそ、本当に死んでしまうかも知れない。
 気を紛らわすように右手に握った刃物を、跨ったままの青年の右足に向けて何度も突き立てるが、ただ赤い液体が舞うだけで、それも大した意味をもたらさなかった。

「――何をどう間違えたらこうなっちまうんだ」

 取り憑かれたように血を浴びる青年が声を荒げる。

「全部お前の親父がねじ曲げたせいだろ…!
 国が悪いとか、それを真っ直ぐに見ようとしなかった人間全員が悪いとか!
 そうじゃない、単にあいつが自分を抑えられなかったのが悪いんだ!
 俺はあいつに、じじいと親父がどんな目に遭ったか思い知らせてやりたかっただけなんだ。
 それなのに…それなのに責任が何だとか言って、俺には詫びの一つもなしに死にやがった!
 あの時どうすれば良かったんだ? 残されたお前以外の誰を恨めば良かったんだよ!
 分からない…何年経ったって、こんな感情分かんな――ッ」

 唐突のことである。
 数回上がった重厚な銃声の直後、呪いの怒涛が止んだ。
 先程までの地獄のような状況が、まるで悪い夢だったかのように静まり返る。
 数秒の時差を経て女の背から滑り落ちた青年は、喉を押さえて、狭くなったそこから漏れる呼気を虚しく鳴らしながら、血溜まりの中をのた打ち回る。

「これが本当に人間のやることかよ!!」

 明らかに速度制限を無視して走ってきた車が、道路にタイヤ痕を残して急停車する。
 運転席でハンドルを握っていた御前が、惨状を目にしてそんなことを垂れ流す。
 その隣、珍しくジャケットを脱ぎ捨てた苗田が罵るかのごとく大声を上げた。

「まひとん、早く美利さんの手当てをしなさい!」

 言われずとも席を立っていた御前は、しかし社長に楯突くように苦言を吐く。

「手当てって…さすがにあの状態じゃ、手ぶらの俺がいくらやっても焼け石に水だ。
 ここまで騒ぎになったんだったら、素直に病院に運んだ方が利口だぞ」
「いいから、止血くらいは出来るでしょう!」
「そ、それは…まぁ――車も盗ませておいて人使いの荒い人だよ、本当に…」

 結局根負けした御前が、首にかけているだけのネクタイを解きながら駆け寄って来る。
 青年に銃口を向けて構える苗田の後ろから慌てて飛び出してきた杏美の姿が、視界にちらりと映る。

「姉ちゃん、生きてるか?」

 全く力の入らない女の体を青年から引き離し、血の気の引き切ったその顔を何度か叩く。
 すると女が「い、痛いです…」と弱々しく返答したのを見、皮一枚繋がった左腕をネクタイで体に固定してやる。
 それに一瞬顔を顰めたが、すぐに自力で立ち上がり、挙動不審に眼球だけを動かした。

「お、おい…」
「…大丈夫、まだ生きてます。
 いやぁ、なんとか自分だけで茶番を終わらせてやろうと思ったんですが…結局は皆さん巻き込んでしまったみたいで。
 あぁ、さっきのは射撃はユノくんですか? 働き始めた頃のヘタクソっぷりとは段違いでしたね…」

 車に歩み寄り、凭れ掛かるようにして後部座席を覗き込む。
 そこに横たわっていた大刀を見つけ、なんとかドアを開け、ずるずると引き摺り出した。
 生きているのか死んでいるのか…気力だけで動いているのを沈痛な面持ちで傍らから眺めていた杏美を向き、いつもの芯のない笑みを浮かべる。

「――ごめん。こんな内容だから、言うに言えなくて」
「…由乃くんに教えてもらった。でもどうして江塚くんに、こんな――」
「ただの度の過ぎた喧嘩みたいなもんだから…だからね、杏美。
 あんまり怖がらないで、こんなになるまで馬鹿やらかした私らを“記録として”残しておいて欲しいんだけど」

 わざわざ言わないでも、どういう意味か察してくれるでしょ?
 立っているのがやっとの状態のまま、生気の抜け落ちた笑顔で杏美を威圧する。
 彼女も相当動揺しているのは分かっていた。
 勝手に巻き込んでおいて、詳細を何一つ教えておかなかったのだから当たり前である。

 しかし、こうして振り回すのも最後だと思えば、もうこの後のことを考える必要だってこれっぽっちもなかった。
 罪悪感だって毛ほどしかない。
 それも、恐らく杏美は薄々気づいていたんだろうと思う。
 か細い体格に不釣合なカメラを持つ手を震わせ、鼻の頭を真っ赤にして、唯一の親友は涙を零して目の前の馬鹿を怒鳴りつける。

「付き合い長いから、今更『こんな面倒事押し付けないで』なんて言えないの分かってあたしのこと呼んだんでしょ!
 …今だって腰が砕けないように立ってるだけで精一杯だよ。おバカな友達のために我慢してもう一踏ん張りするけどさ。
 だけど、ミトはその後どうなっちゃうの?
 そんな大ケガしただけだって大変なのに、こんな犯罪じみたことまでして――!」
「ヤだなぁ…間違いなく“犯罪”だよ、コレ」

 大刀をなんとか持ち上げ肩に乗せ、肘から下は固定されていない左手に、柄に巻いていた布切れを結びつける。
 苗田の「長話は良くないわ」という緊迫した声に、今にも立ち上がらんとする青年を振り向く。

「こんなことにまで付き合ってもらって悪いと思ってるよ? でも気恥ずかしいから、ちょっとここじゃお礼言えないんだよね」
「…いいよ。また後日言ってもらうから」
「……初めて一本取られた」

 カシャリ。
 軽快なシャッター音が、杏美の代わりに女を嘲笑った。

 足を引き摺るように、一歩、二歩と、声を失った青年に歩み寄る。
 それを落ち着かない様子で見ていた苗田が、意地悪するように呼び止める。

「茶番だと分かっていて、それでも途中で放棄する気はないのね」
「まぁまぁ…出来の悪くても最後まで貫き通そうとしてるんです。どうか笑わないで見届けてやってください」
「だったら期待してるわよ、最後の大どんでん返し。だって、あなたは賢い子だもの」
「いやぁ――」

 湿った顔で冗談を言う苗田。
 直視できず正直に困惑を示すと、一心に青年を狙い澄ましていた拳銃を下ろした。
 ずっと遠くから距離を縮めてくるサイレンを小耳に、鼻口まで届かず、喉に開いた穴から呼気を漏らす男を見下ろす。

「…さっきの話の続き、もうしたくても出来ないだろうから私からしてあげようか」

 縋りつくように、女の手放したナイフを握る青年。
 薄ら笑う女を恨めしそうに見上げたその瞳には、いつかと同じ怒りが渦巻いていた。

「お父さんのしたことが私たちをこうしたのは、まぁ、間違いないと思う。
 今となっては私もそう認めて、残された家族として責任も感じてる。
 でもそれ以上に、やっぱり人殺しはよくないね。
 だから、私も孝馬も――今まで散々人を殺して生きてきた人間全部が、それを罪だと思わなきゃいけない。
 そう感じなきゃいけない世界にならなきゃいけない、今まで以上に。
 最低限なにかしらの責務を負わなきゃいけないってね――それこそ、お父さんみたいに」

 諭すわけではない。
 咎めるわけではない。
 同情するわけではない。
 まともに働かない脳に浮かぶ言葉を声に出しているだけの、独り言のような口調。
 ただ一つ、彼女のはっきりとした意志が、死人みたいな顔にぱっと宿ったことだけは、生きていた。

「でも、そうなる前に私たちがいた意義ってのを見せしめてやりたいと思うのが性だ」

 カシャリ。
 またもや鳴るシャッター音。

「…殺したくないのに殺さなきゃいけない葛藤に悩んできた人間が、この平和主義をのうのうと掲げる日本にいたことを発信したい。
 私の考えなんてこんなもん。ただ――それだけの話。どうよ、ものすごく青臭くて愉快でしょ」

 挑発を受けた青年が、再びチャンバラみたいにナイフを振るうと、それを避けようともせず大刀を降ろした女の胸部に刀身が全てずぶりと埋まる。
 だが、それに対する痛みを嘆く声はなく、むしろそれを歓喜とするように、喀血すると共に乾いた笑い声さえ上げた。

「その葛藤だって…根刮ぎ終わりにしてあげるよ」

 カシャリ。
 満身創痍の女が青年を蹴り飛ばし、無様に抵抗を続ける彼に向け、最後の一閃を見舞った。

「“最期を贈る人間”として、全部――ッ!!」





前話 モドル 次話
Copyright (c) Ai-R 2010.