1章 雨毒と廻人(1)
 ネヴェリオ連併国(れんぺいこく)ロットラント州、キャレー廃街。
 打ち捨てられた街の中の一軒、ランプに閉じ込められた蝋燭の明かりが充満する地下室で、年老いた男は腰を抜かして何もない天井を仰いでいた。
 手入れのされていない脂ぎった薄毛、目ヤニだらけの双眸、砂埃に汚れた衣服……その風貌の通り、男は長い間まともな生活を送っておらず、そう遠くない将来、この部屋でひっそり死のうと身支度を始めていたほどひどく衰弱していた。
 数年前、首都であるロットラント市街から発生した黒い雨は未だ猛威を振るい続けており、男も甚大な被害を受け、その影響から体の自由が奪われている最中なのである。

 黒い雨は毒を孕む。
 詳しい原理は分かっていないが、雨に直接触れてしまった場合、六時間ほどで細胞の溶解が始まり、患部を切除しない限り侵蝕は進んでいく。
 処置の遅れた患者は発症からニ〜三日のうちに重篤化。
 その後、数日の間に死亡するケースが非常に多い。
 さらに、間接的な要因でも症状が現れる。
 報告例の多くは、黒い雨が降る際に巻き上がった粉塵を吸い込むことによる呼吸器系、循環器系、それらを経由することによる内分泌系の壊死。
 これらは長期間において毒が蓄積することで発症する事例がほとんどで、患部の切除による進行の阻止は効果薄とされ、これといった治療が行えないのが現状だ。
 加えて、直接接触による発症者も粉塵吸引から臓器腐食を起こし死亡することもあるため、雨の正体が単純な細菌感染であるとは考え難いという観点に重きを置き、鋭意研究中といったところである。

 人々はこの黒い雨のことを“雨毒(うどく)”と呼称し、降雨の可能性がある場合は、比較的被害を抑えられる屋内に篭もって生活することを余儀なくされている。
 そして男は、まさにこの間接的要因による症状によって、苦しんで死んでいくことを覚悟していた。

 雨毒により捨て置かれたこの街では、水やガスなどのライフラインが絶たれてしばらくが経っている。
 衣類を洗濯するための水道は枯渇しているし、湯を沸かすガスも薪もなくては、この冷え込んだ季節に風呂に入る気力もない。
 辛うじて電気の供給だけは享受しているが、それも微々たるもので、際限なく自由に扱うのは無茶な話である。
 それでも男がこの地を離れずにいたのには理由があった。

 人の手により人を作る――古くより神のみが成せるとされてきた異業。
 これを自身の手により叶えてみたくて仕方がなく、死のうにも死に切れなかったのだ。
 これこそが、ここまで生き永らえている目的といっても過言ではない。
 とは言え、男には人工生命に関する知識などどれほどもなかったし、そもそもこの(ろく)でもない夢を抱いたのも極々最近の……一年ほど前の話であっただろうか。
 雨毒による肺機能の低下を医者に宣告され、長くない老い先をどう過ごすか考えながらぼんやりと聴いていたラジオから、“雨毒に耐え得る新人類の開発に成功した”旨の発表が飛び込んできた。
 いやはや(おぞ)ましいことをやってのけたものだと驚くと共に、自身への恩恵はまるでないことを悟り、嘆くほかすることも思い浮かばない日々を送っていた頃、男の元に、キセルを携えた見知らぬ女が訪ねてきた。
 闇と見紛うような黒装束に身を包んだ女は、新人類開発に携わった者であると身元を明かした後、男に耳を疑うような取引を持ちかけるのだ。

「死に至る前の今一度、その手で人を産み、育むことに関心はございません?」

 提示した条件の通りに新人類の作成に臨むのであれば、諸々の技術提供を保障する。
 国を挙げての大規模な研究であるために、従来の倫理観に苦悩する必要はない。
 知識や技術がなくとも、資料の記述に沿えば誰にでも作業をこなせるような段階まで取りまとめを終えている。

 ――決してまともな話ではなかった。
 何故とは言うまでもないのだが、それでも男は二つ返事で許諾した。
 雨毒に殺されていく時限の人生を、何か意味を持って終えたいと、そう願っていたのかも知れない。
 時に抗おうが従おうが、どうせ直に死ぬ。
 どんなことをしたところで、それを咎める者も、褒め称える者も、恐らく自分が死んだ後の世界にしか現れないことを、朧げながら悟っていた。
 単に魔が差しただけだと、そう言って終えようと選んだ道。
 そのはずが、設備の投資を受け、女より承諾した条件に沿い、自身の手によって生み出した“新人類”を目前にした今になって、男は己の行いに愕然とすることとなった。
 確立された禁忌は想像していたよりも簡易的かつ作業的で……しかし、言葉にし難い恐怖を内包していた。

「本当に……こんなモノが……」

 男の前には、全身水浸しの少年と少女が立っている。
 男が毎日のように様子を観察しては大切に育んできた、“新人類”と呼ばれる人造人間たちだ。
 二人は、未発達な体を露わにしたまま、「寒い」とか「眩しい」とか、思い思いのことを口にしている。
 最初は小さな小さな細胞に過ぎなかったものが、培養を経て集団を成し、脈動を始め、大きな水槽の中でぷかぷかと漂うようになるのを眺めてきた。
 それは今まで、飽くまで水に浮かんでいるだけの物体でしかなかった。
 いつ見ても目や口を閉じ、身動きもほとんど取らないでいただけなのに、それが呼吸を覚えた途端に言葉を発し、目で見たものを即座に認識しているようなのだ。
 人の赤子とは、似て非なる存在。
 こんなものに何を渇望していたのかを思い出すことはできず、ランプの揺れる炎を見上げ、情けのない嘆声を漏らすことしか男にはできなかった。

「あの女――」

 キセルを弄りながら微笑んでいたあの女は、もう正気ではなかったのだろう。
 後悔の念が渦巻く中で、それだけははっきりと思った。
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