1章 雨毒と廻人(10) | ||
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ムロビシが慌てて迎え入れたのは、先程一人でふらりと出掛けていったアカアリだった。 カラスとキナリが外で彼女を見送ってから一時間ほど経過しただろうか。 決して長い時間ではなかったはずなのだが、それに反して、彼女の風貌は著しい変化を遂げていた。 何を考えているか分からない表情は一つも変わらないが、その顔面と毛髪、両手の大部分が真っ赤に濡れているのだ。 彼女の纏う息の詰まるような異臭から、それが血液であることは即座に理解できる。 黒いため見づらいが、やはり衣服にも多少の飛沫が付着しているらしい。 骨張った手には人の頭ほどある大きさの布切れが握り締められており、これも大きく血に汚れている。 ムロビシには何が起こっているか具に把握できているのだろう。 呆れたようにいくつかぼやきながら、特に暴れる予兆も見せず佇むアカアリに、手招いて行く先を誘導する。 さすがのカラスとキナリにもアカアリが外で何をしてきたのか、自身の被害を思い出せばおおよそ想像つくのだが……一つだけ、無性に気にかかる点があった。 それをカラスがムロビシへと問う。 「そいつ、なんで口の中まで血だらけなんだ?」 ムロビシの声に反応しているのか、アカアリは「う」とだけ呻くのだが、その際わずかに開いた口唇、さらにその奥に隠れていた前歯も、色水を飲んだかのように見事な赤色なのである。 様子を伺いつつアカアリの腕を軽く引くムロビシは、とある小さな部屋へと足を踏み入れつつ、苦笑いを浮かべて答える。 「時折かじっちゃうんだよね、死体のこと」 悪戯っぽく話すムロビシに、カラスは嫌悪に喉を鳴らした。 「……それって食ってるってことかよ」 「いや、噛むだけ。子供みたいに、遊んでいるうち口に放り込んじゃうんだろうね」 容易に想像できてしまうだけに、返す言葉もない。 有事であっても自分は死んだ相手にまで歯を立てることはしないだろうと、ある意味でカラスは冷静に考える。 「夕暮れ時と深夜帯に近所を徘徊する癖があってね。最初の頃は何を仕出かすか知れないから後ろをついて歩いてたんだけど、特に用があるわけでもなくぶらぶらして帰ってくるだけだから、ここのところは雨以外の日は放置することにしてるんだわ。で、たまにこうして悪戯が過ぎるときもあるわけ」 ムロビシが部屋の明かりをつけると、壁にシャワーが引っかかっただけの狭い空間が浮かんで出てきた。 アカアリは体を左右に小さく揺らすと、手に持っていた布切れを床に落とし、シャワーの目の前に立ってヘッド部分をじっと見つめる。 「……あのアカアリの感じ、水道見てたときのキナリと似てるな」 カラスに鼻で笑われ、そんなことはないと切り捨てるキナリ。 雑話を繰る少年少女を脇目に、ムロビシが床に置き去りにされた謎の布切れを拾い上げ観察してみれば、それが袋状であることに気づく。 カバンというやつだろうか……キナリは関心げに眺める。 「相手が人か獣かは日によって汚れ具合で何となく予想できるけど……今日やられたのはその辺を通りかかった通行人だなぁ。暇を潰しに襲い掛かって、満足するとこうやって名残惜しげに手土産をぶら下げて帰ってくるらしい。何らかのお肉の塊を持って帰ってこられたときには困ったっけ」 「最初から外に出さなきゃいいだろ」 「そんなこと続けてたら俺がミンチにされちゃうよ。被害者さんには申し訳ないが、運が悪かったとあの世で悔やんでもらおう」 どれほど本気で悪びれているのやら知れない。 ムロビシを蔑視していたカラスだったが、目が合ったと思うと、突然血塗れのカバンを投げ渡された。 意表を突かれて驚きつつも、なんとかして落とさず受け取ることに成功する。 「あっぶねーな!」 「中身、開けてみな。今日はなかなか当たりだ」 「はぁ?」 両手で抱えていると、すでにキナリが横から見つけたらしいボタン式の蓋を開けていた。 ごそごそと手を突っ込んで中から取り出したのは、掌大の革製の入れ物のみ。 それが何物なのか、くるくると半回転ほどさせて観察しているうち、キナリの手から滑り落ちてしまう。 床に当たったそれは、衝撃を受け、真ん中から展開して長方形に変形。 その一連の様子を認めると同時に、中に入っていたらしい円形の薄い物体が飛び出し、甲高い音を立てて散らばっていく。 それぞれが転がったり回ったりし終えて静かになる頃、カラスがすかさず横槍を入れてくる。 「どんくせーな」 デリカシーのない少年をムッと睨みつけてから、散り散りになってしまった円形の小物を一枚拾い上げてみる。 金属でできているらしいそれには精密な刻印がなされていた。これは恐らく――。 「お金?」 「正解。落とした入れ物の方は財布だね」 ムロビシはわざとらしく指を鳴らす。 「臨時収入だ。二人のお小遣いにしていいよ」 「……追い剥ぎは駄目だって、さっきムロビシ言ってた」 「言ったねぇ。当然、警察を始めとする治安機関に見つかったら立派な犯罪者だ。でもね、わざわざここまで巡邏に来るような人手はないのよ。やっちゃ駄目だけど、過ったところで咎められることもない。このネヴェリオって国は、もはや法治国家とは呼べないよ。――さっ、アカアリ」 哀れむわけでもなく、蔑むわけでもなく。 どこか余裕さえ窺える調子で言い終えると、ムロビシは未だにシャワーを睨み続けていたアカアリを呼ぶ。 一度目は案の定無反応だが、二度目の呼びかけでようやく振り向いたアカアリの目をしっかりと見、両腕を勢い良く水平に開く。 「はい、腕上げて!」 「……」 「こう。いつもやってるでしょ」 大袈裟に腕を上下させて見せる。 一見、かなり滑稽な光景だが、アカアリに真似するよう促すためのジェスチャーのようだ。 しばらくムロビシの動きを追って目をキョロキョロさせていたアカアリであったが、何度目かの時点で彼が動きを止めたと思うと、「うぅ」と呻き、腕を力なく曲げ、肘が腰の辺りに来るまで腕を上げた。 その肘をムロビシがもう少しだけ手で押し上げたと思うと、アカアリの胸元で留まっていたファスナーを下まで一気に下ろす。 最後の留め具までは外れなかったようで、ファスナーを何度か上下させるムロビシの様子を怪訝そうに眺めるカラスの隣、キナリは目をぱちくりさせる。 「ぬ、脱がすの」 「え? あー……こいつ、一人じゃシャワー浴びられないからね」 キナリの焦燥を察したムロビシは一瞬だけ言い淀みつつも説明し、最後にカラスへと目を滑らせてニヤッと笑う。 「カラスくんは、見たい?」 「あ?」 「アカアリの素っ裸」 「そんなモン見てどうすんだよ」 ムロビシの思惑を根本から理解できていないらしいカラスを、慌てふためき部屋の外へと押し出すキナリ。 「だッ、だめ」 自分でも何が駄目なのか全く分かってはいないのだが、とにかくカラスにだけは見せてはいけない光景が待っている気がしてならなかった。 反射的に行動したがために、カラスの機嫌は一気に坂を転げ落ちる。 廊下に戻されるなりキナリの襟口を絞め、手前へと引き寄せて怒気を放つカラスを抑えるように――なのかは定かではないが――ムロビシが声を上げて大笑いする。 それにカラスは一瞬だけ素っ頓狂な表情を浮かべて停止。 「いやぁ、まじか……! っくく、そうか、キナリちゃんだけか、恥じらいがあるのは。これは気苦労が絶えないね」 いつ顔に拳が飛んで来てもおかしくないと目を瞑って堪えていたキナリだったが、ちらりと右目だけを薄く開け、カラスの注意がムロビシに向いたのを見る。 激昂を再燃させたカラスは、心底気に食わない様子でムロビシに睨みを利かせている。 「なに笑ってんだ」 「カラスくんよりキナリちゃんの方がちょっとオトナだねって話」 格闘を続けていたファスナーが分離する。 布が噛んでいたらしい。 「っていうか、今のはキナリちゃんじゃなくおいちゃんに怒るべきところでしょうよ。苦しそうだ、手離してあげな」 間に入られて興が冷めたのか、全く納得はしていない顔だが、言われた通りキナリを手荒に放す。 何度か浅い呼吸を経て落ち着きを取り戻したキナリは、カラスと目を合わすこともせず、つんとそっぽを向く。 至極当然の反応なのだが、今のカラスにとっては、誰しもの、どういった行動も神経を逆撫でする要素でしかない。 「……そういうことなら、おっさんを殴っても文句ねーよな」 「どういうことかね……。せっかくアカアリも静かにしてるんだし、少し頭を冷やす練習でもしてなさい」 「うっせー!」 どう楯突こうが簡単にあしらわれてしまうカラスは、周囲の物に当たり散らして鬱憤を晴らそうとしたのだろうが、部屋を一瞥しても家具らしいものはない。 唯一目に留まったらしい電気のスイッチをがつんと殴る。 明かりはパッと消えてしまったが、キナリがそそくさと点灯し直したため、少年の威嚇行為はあまり意味をなさなかったといえる。 ムロビシを指差し、声を張る。 「いいか。さっきも言った通り、オレはテメェの言いなりでいるつもりはねーからな」 格好のつかない状態で捨て台詞を吐き、カラスは三人の前から大股歩きで去っていくのであった。 * * * 『オレはテメェの言いなりでいるつもりはねーからな』 青年は、スピーカーから飛んでくる生意気そうな声を耳にしながら、ずるずると音を立てて麺を啜る。 軽くパーマのかかった髪は明るい茶色で、ゆったりとした形状の服も髪に寄せた、黄色を基調とする大人しい風合いだ。 『怒り方のチグハグさの可愛いこと……。二〇分あれば終わると思うから、悪いけど、それまでカラスくんの見張りお願いしていいかな。そのあと、お勉強会しよう』 『……うん』 少女の小さな頷きを最後にスピーカーからは酷いノイズばかり聞こえるようになり、慌てて電源を落とす。 無垢材で作られた木目調の机に置かれていた携帯電話を拾い、左の肩と耳を用いて挟み込んで話す。 「――今の素行の悪そうな子がカラス君。もう一人のキナリって子はずいぶんと静かみたい。どっちもアカアリにやられて、昨晩連れて来られたばっかり」 『そうか』 電話から返ってきたのは、活力の薄い、暗い男の声だった。 青年は食事を止めようともせず相手に問いかける。 「ちゃんと飯食ってる?」 『日に一食は』 「そんな生活してるから体も治らないんだよ」 『アバラ骨ならとっくに本復だ』 「そっちじゃなくて、肺。どうせタバコも止めてないんだろ?」 胡椒瓶の蓋を開けて器の上で何度も振るが、中身が少なくなっているためほとんど出てこない。 机の角に軽くぶつけてみても大した変化は起こらず諦める。 『雨で腐ったんだ。タバコぽっきり止めたところで治るもんじゃない』 「治療痕が消えないのは雨のせいじゃない」 『それもどうだか。鋭意研究中だろ、名目上は』 電話越しの男は淡々としていた。 これ以上の指摘を遮るためか、一方的に話を終わらせようとする。 『長話は傍受される。切るぞ』 「飯食ってちゃんと寝るんだよ」 『オカンかよ』 他愛のないやり取りの後、ぷつりと通話は切れた。 静寂に包まれた室内、腹が膨れるのを満喫して体を伸ばして、目を閉じ、穏やかな笑みを浮かべて呟く。 「アカアリ……君は本当に、どこまでを理解して生きているんだろうね」 暢気に大きくあくびをする青年の両耳、細工されたらしい複数のピアスが室内灯の光を受けて明滅していた。 | ||
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