1章 雨毒と廻人(2)
「さっきからボソボソうるせーぞ、ジジイ」

 少年少女は産まれたばかりの、限りなく無知な状態といえる。
 そんな少年からすれば、すぐ傍らで一生の回顧に耽る男は対照的な存在であり、彼が何かしらに失望しているようであることは理解できても、上向いて独り言を呟き続ける気味の悪い老人に過ぎなかった。
 感情のままに男へ暴言を吐き捨ててみるも、それに見合うような反応は返ってこない。
 少年の耳に届くか微妙な声量で、しかし確実に何かを呟いているのは分かるのだが……。
 男のそんな様子に対して、少年の苛立ちは次第に募っていくばかりだ。

 一方の少女は、老人に対しての興味はほとんどなかった。

 地下室全体を隈なく見回した後、大量の書類が乱雑に積まれた机へと気が向く。
 床にも生活用品などが散らかっていて、足の踏み場はほとんどない。
 少女にとって、ここを進むのは思いがけないほど難度の高い行為を強いられる状況であった。
 呼吸をしたのも初めてであれば、立ち上がることも、歩くことも同様であるためか、頭の中で思い描いているようには移動できないのだ。
 重心を移動させ、歩を進めた先で一時的に留まり、再び狭い足場に爪先を持っていく――。
 何度もバランスを崩しては周囲の物に寄りかかったりして試行錯誤を繰り返し、ようやく机に辿り着いた頃には、どっと疲れが襲ってくるのを感じていた。
 それでも未だに残る好奇心を振り絞り、書類の山に紛れてこんもりと丸まる布が置かれているのを発見する。
 恐る恐る手に取って広げてみれば、それはどうやら衣服であるらしい。
 白と黒の二色の生地に、冴えるような翡翠のラインが走る簡素なデザインだ。

「ねぇ。こんなところに服がある」

 少年に報せ、持ち得る知識から着用を試みてみると、案外すんなりと腕が通った。
 袖口がかなり広いためであろう。
 ズボン形状の服についても難なく身につけ、服の中に入り込んでしまった飴色がかった白い長髪を手繰(たぐ)り上げる。
 その動作とほぼ同時に、少女の背後……少年のいる方向から、恐ろしく大きな物音がした。
 反射的に振り返った少女の視界には、男の丸々とした腹へと跨り、その首をぎちぎちと絞め上げる少年の姿が映る。

「……何してるの」

 少年は力一杯に爪を立て、必死に暴れて抵抗する男を押さえ込んでいるように見えた。
 絞首に没頭する少年へ、今一度声をかける。

「ねぇ」
「あァ?」

 返事とも呼び難い、粗暴な声が返された。
 それも語気に怖みを含んでいるではないか。
 これ以上の問い掛けは面倒事になりそうだと、少女は幼いながらに察して話題を戻すことにする。
 男の動きも鈍り、そろそろ終わりを感じさせている。
 余程の力で絞められているのか、男の太い喉からは声にも昇華ならぬ呼気が、口内に溜まった唾液を震わす音しか聞こえてこない。

「服、あるよ。寒いし、早く着たら」
「服?」
「肘と膝までしか隠れないけど、何もないよりちょっとマシ」
「めんどくせーな……っと」

 少女の呼び掛けに億劫そうに男の腹の上に立ち上がると、念を押すようにぐいっと体重をかける。
 そのままジャンプをするように、短い間に数回跳ねるのを繰り返し、目を剥く男のそこかしこから肉の分離する音がすると、やっと床へと両素足を降ろした。
 少年が一通り満足したのを見計らって服を投げ渡す。
 少し的が外れてしまったが、素早く反応した少年の手に収まる。

「どうして殺したの」

 確かめ方こそ知らないが、男は多分、もう死んでいるだろう。
 あれだけ容赦なければ、仮に生きていたとして、僅かな先もない。
 少女にとって老人は別段どうでもいい存在ではあったが、どことなく楽しげにしていた少年の思考の方が気になった。
 少女が服を見つけるまでの時間はそれほど長くなかったはずなのに、そのうちにここまでの状況に進展した経緯を知りたいと、何となくそう思っただけだ。
 しかし、少女の問いに対する少年の返答は驚くほど短絡的なのである。

「気に食わなかったんだよ。口、すげー臭ェし」

 ……呆れた。
 いろいろと聞いておきたいこともあったというのに。
 洋服の着方が分からないと怒り出す少年に身振り手振りで教えながらも、少女の表情は自然と引き攣っていた。
 これからどうしたものか。
 悩んでいるところ、ふと不便に感じていた事柄を思い出し、問い掛ける。

「ねぇ。名前は?」
「んん?」

 服の中でもがもがと暴れて、間の抜けた声を上げる少年。
 少女は追撃。

「名前を教えろって言った」
「――カラス、だ」

 ようやく探り当てた襟口から顔を出し、少年が名乗る。
 少女の見様見真似で、腕を通すべく袖口の捜索へと続く。

「そっちは」
「キナリ」
「キナリ……言いにくいな」

 いまいち舌が回らないのか、カラスが少女の名を呼びづらそうに発音した。
 それでもキナリは互いの呼び名を設けられたことに充足感を得、視線を再び机へと向け直す。

「カラスは、字って読める?」
「んなもん知らねーよ。お前は読めんのか」
「読めない」
「ダメじゃん」

 読めないからこそ尋ねたのに、とキナリは思う。
 会話の意図を全く汲み取ろうとしないカラスには参ったが、逆に言えば、このやり取りのおかげで彼があまり賢くないらしいことは察することができた。
 無知を隠そうとせず、思ったことをそのまま口に出してくるため、案外やりやすい相手だとキナリは確信する。
 そんなことを内心で巡らせつつ、机上の書類に触れ、持ち上げてカラスへと見せる。
 びっしりと文字が並ぶ書面を軽く一眺めしたカラスは、やはり間抜け顔を取る。

「なにそれ」
「分からない。けど、読めたら分かることなのかも」
「そりゃな……っつか、あれもこれもって分かるワケねーじゃん」

 かったるそうに耳の穴をほじくって、カラスはとある方向を指し示す。
 視線を滑らせたそこにあったのは、箱状の大きな透明の容器だった。
 いくつかの計器やチューブを携えたそれは、二人の腰ほどの高さの台上に固定されている。
 大人が横になっても余裕があるほどのサイズで、中には黄緑色の液体が八分目まで入っており、気のせいだろうか、微かに発光しているように見える。
 それを視認したキナリにとっても、痛く見覚えのあるものであった。

「オレら、そこから出てきたばっかりだし」

 そうだ。
 二人はつい先ほどまでこの容器の中を浮遊していた。
 当時の記憶は幾分もないのだが、目を開いた瞬間の出来事は鮮烈に覚えている。
 肌に纏わりついてくる水の感覚。
 それを掻き分けるようにして触れた容器の触感。
 肺へと流れ込んでくる空気の冷たさ。
 網膜を刺激する燭火(しょっか)の眩さ。
 そしてそれら全てを表現するために必要な言語が滾々(こんこん)と湧き続けてきて、頭が急に熱く、重くなったような気がした。
 鼻も口も水の外に出たというのに、一向に息苦しさは解消されず、もがくようにして体を乗り出したところへ飛んできたのが、この部屋で息絶えている初老の男だった。

 ……意識が覚醒してから今までの記憶といえば、大体そんなところか。
 そう思い返して気がついたが、当時感じていた頭重(ずおも)や息の詰まるような感覚は全くなくなっていた。

「わたしもカラスも、自分の名前は知ってるし、紙とか、服とか、目にすればそれが何なのかほとんど分かるのに、どっちも字は読めないんだ……」
「字だけじゃないんじゃねーの? 分かんないモンは、何を見たって分かんないぞ」

 今更になって、ようやく衣服を着用し終えたカラスが言う。

「俺らが入ってたこの水槽みたいなモンだって、名前も意味も知らねーし。そこでくたばってるジジイのことも、だな」

 言われてみて初めて「そういうものだな」と自覚することを、二人は生まれてから間もない短時間で幾度も経験していた。
 何とも形容しがたい感覚だが、言葉にできないのならば仕方がないと諦めることは意外と容易かった。
 尤も、キナリは老人にその辺りのことを問い詰めようと考えていたのだが……今となっては叶えようもない夢と散ってしまった。
 手に持っていた書類を机の上に戻したキナリは、赤味の強い黒髪が目にかかるのをうざったそうにいじるカラスを見、提案する。

「外に出よう」
「外?」
「これを読める人を探すの」

 床を占領する障害物を避けながら、出入口であるドアへと向かう。
 先ほどよりも遥かに楽に歩行できる。
 経験や慣れというのはこういうことか、とキナリは思う。
 面倒臭そうに後ろをついてくるカラスの気配を感じながら、ドアの前で立ち止まり、両手で押してみる……が、動かない。
 何度か同じようにしてみたあと、取っ手の存在に気づき、手前に引き寄せることでドアは開いた。
 先には階段が見える。
 地下室の外も同程度の明るさで、探索するのに支障はなさそうだ。

「あんなペラッペラの紙なんて放っておいたっていいだろ」

 カラスの不満が届く。

「駄目。これからどうするべきか分からないし」
「別にどんなことしたっていいじゃんか」
「それじゃ、わたしたちのこと、ちっとも分からないままになる……気がする」
「勘かよ」
「……勘でも、何もないよりマシ」

 カラスの無鉄砲な意見には腹が立ったが、自分の勘がそれに対抗できるほどの自信もない。
 仄暗い視界に目を凝らしながら階段を上り切るも、カラスを正当に論破できないもやもやした感覚が、キナリは無性に悔しくて仕方なかった。
 些細な失敗を引き摺り始めたキナリをよそに、カラスの興味の矛先は二転三転と変わっていくようで、地下室と同型のランプに照らし出される部屋の内景それぞれを眺める。

「そういや、なんでジジイを殺したのかって、さっき訊いてきたよな」
「……うん」

 ランプの揺らめく炎をじっと見つめたまま、カラスが改まる。
 キナリも歩みを止め、振り返る。

「理由はホントになかった。口が臭かったのは嘘じゃないけど、気に入らないから、邪魔だったから、首を絞めれば殺せると思ってやってみただけだ」
「…………」
「なんか悪いことだったのか?」

 少年は少女を向き直る。
 炎の橙が、波紋のように二人を照らす。
 カラスの屈託のない視線に射抜かれて、キナリは慌てて俯いてしまう。
 何か後ろめたい気持ちがあるわけでもないのだが、彼と同じように、相手をじっと凝視するなんてことはできる気がしなかった。

「わ、悪いって言うか……」

 問いには答えねばと言葉を繋ぐ。

「逆に、襲い掛かられたら危ないって考えはなかったの?」
「危ないなんてことねーだろ」

「だって」と、カラスは続ける。

「オレらってさ、ちょっとやそっとじゃ死なない(・・・・・・・・・・・・・・)んだろ?」

 キナリは目を白黒させた。
 カラスが当然のように放った言葉の意味が理解できなかったのだ。

「――どういうこと?」

 これまで彼の考え方が分からなかったことは多々あったが、言っていることが噛み砕けなかった覚えはない。
 死なないというのはどういうことなのだろうか?
 キナリの知り得る情報だけでは処理できない事柄であることは瞬時に判別できた。
 再度聞き直した上で、詳細を一つずつ教わることが最も手早いと考え、疑問符を口にする。
 恐らくいくつか小言を挟まられるだろうが、今は懸念よりも知識欲が遥かに勝っている。
 どうとでも言えと諦めたキナリの予想したように、カラスが憎たらしい笑みを浮かべる。
 しかしそれはほんの一瞬のことで、すぐに眉をしかめ、見たこともないような眼光を宿らせた。

「キナリ、後ろ見てみろ」

 そう促したのは、実に小さな声だった。
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