1章 雨毒と廻人(3) | ||
---|---|---|
「窓のとこ。何かいるぞ」 カラスの示した通り、背後を確認する。 建物の外へと通じているはずの玄関ドアを挟むように、左右に一つずつ窓が設けられている。 その右側……キナリとカラスのいる場所から遠い側の窓枠に、人影が凭れかかっているように見受けられる。 ガラスは崩れてしまっているらしく、その人物を隔てるものは何もない。 いつからそこにいたのか分からないが、少年少女が警戒しながら睨みつけようとも、身動き一つ取らず、その場にじっと佇んでいる。 外は月明かり以外まともな光がないため、顔はほとんど識別できないが、真っ白な毛髪と、同じように白い肌だけは確認できる。 背丈は二人よりもかなり高く、体格はキナリをそのまま大きくしたような痩身だ。 「おい!」 先に行動を起こしたのはカラスだった。 その場で居直ると、人影に向けて大声を上げたのだ。 まさかこの状況でいきなり呼び掛けるとは思ってもみず、キナリの方が機敏に振り返るが、もはや彼の意識は正体の知れぬ人間一点のみに集中してしまっていて、キナリの物言いたげな表情など目端にもくれない。 「テメェ、誰だよ? 黙って見てねーで答えろ」 刺すように白い月光を背負い込んだまま、人影は物音一つ立てる様子はない。 視線を逸らすことすらもせず、カラスの声は丸っきり遮断されているかのような無反応の加減である。 さすがのカラスも得体の知れない気味悪さを感じ取っているのか、老人を絞め殺したときのような無鉄砲な行動に出るつもりはないらしい。 広い部屋の対角から一歩も踏み出せそうにない緊張を肌に感じ、キナリの心臓は破裂しそうなほど脈動を速める。 息をするのもやっとで、意識しないうち、カラスの袖口を抓るようにして縋る。 『――確かに君ら“新人類”は、致命傷に成り得る外傷、内傷共に対して耐えられるよう、やたらと頑丈に造られている』 ふと、聞き慣れない低い声が木霊した。 ざりざりとした質の悪い音だ。 ようやく返って来た言葉に身構えるカラスの横、驚いたキナリは腰を抜かして座り込んでしまう。 物音に気づいたカラスに「何してんだ、早く立て」と鼓舞されるも、体はすでに言うことを利かずどうしても叶わない。 視線を対象から外さないようにするだけで手一杯だ。 身動きが取れそうにないキナリを見、舌を打つカラスの焦燥を煽るように謎多き人影がゆらりと動いたと思うと、ガラスのない窓から細長い腕を通し、ひょいと部屋の中へと跳び込む。 着地音はほとんどしない。 丸まった背をゆっくりと持ち上げると、ランプの明かりを受け、ようやくその全身像を浮かばせた。 すらりと伸びた肢体は細く、且つ長く見える。 痩せ型であるためにそう捉えてしまうのだろうか。 膨らみのある胸部の隣、唯一露出している腕には薄っすらと影が落ちており、多少の筋肉の隆起を感じさせる。 そのほかの素肌は黒い革素材の衣服に包み隠されているが、顔や手足首から僅かに覗ける部分から察するに、カラスやキナリよりも一層白く、血管や内臓すら浮いて出てきそうなほどだ。 肌と同様に白い髪は、左側面は几帳面に結った後に編み込まれ、打って変わった右側面はほとんど何も手を加えずに垂らしたアンバランスな形。 そのやや長い前髪の下に埋まる瞳は澄んだ青色をしているのだが、生気のない目つきのせいで活力は皆無に等しく、表情も彫像と見紛う。 少し骨張った右手には黒っぽい刃物を、細い腰には手のひら大の箱のようなものをそれぞれ携え、踵の高いサンダルを不格好に鳴らしながら少年少女との距離をじりじり詰める。 『少年。君の方はそれを知識として備えているようだが、擬似的にでも不死身を望むのなら、残念ながらいくつか条件を満たさなきゃならない』 目の前の人物が女であることくらいはカラスにも判別できたが、この声が思考の邪魔をする。 女の腰に括りつけられた箱――スピーカー類と思われる機器から音が出ているものの、これがどういう仕組みであるのか、そもそも女自身の言葉を語っているのか、はたまた全く関係のない第三者のものなのか……そういった細かな部分が合点いかない。 今一度キナリへ視線を向けるも、彼女もカラスと同じような戸惑いを目に浮かべていた。 『おいちゃんたちね、君らを保護するためにここまで駆けつけてきたわけよ。それ以上難しいことは言わないし、逆に二人が詳しいことを知りたいって言うんなら、後ほどじっくりと質疑応答タイムを設けようとも思ってる』 でも、と冗長な言葉は続く。 『そっちに着くまでもうちょい時間かかるから、そのまま大人しく待ってもらえると非常に助かるんだよね? や、これホント頼みたいんだよなぁ』 やや早口にそこまで言い終えると、息を切らしながら、機械は調子を明らめて苦笑いを挟んだ。 ドタバタと大仰な足音も混ざって聞こえてくるということは、声の主はどうやら走ってこの場所へ向かっているらしい。 つまり、女のほかに違う人間がもう一人いて、何かしらの関与をしようとしていることになる。 足りない頭で考え巡らせるうち、女の歩みが二人のすぐ手前で止まった。 「……ぐだぐだワケ分かんねーこと言ってんなよ」 青い瞳が無感情に二人を見下す。 いよいよ悠長にしていられない状況だ。 とにかくもう一人の方が来る前にここを切り抜けるべきだと、カラスの勘が警鐘を鳴らす。 カラスの声色から悪い予感を察したのか、機械から切羽詰まった声が飛んでくるが、もう遅い。 『ちょっと待って! あと二分で着くから――』 「待ってられっかッ!」 さっき老人に対してやった手順と同じでいい。 首を絞めれば息は止まる。 相手がもがき苦しんで抵抗してくるのを押さえ続ければいいだけ。 そうすれば簡単に殺せることは覚えた。 決心の直後、キッと女を睨みつけたカラスの腕は白い首元へと伸び、瞬時に目標を手中に収める。 そのまま渾身の体当たりを食らわすと、女は容易く床へと転げたため馬乗りになる。 あとは好きなように喉笛を掻き切ってやるだけだ。 込み上げてくる高揚感に顔が歪むのを自覚しつつ、女の表情を拝むべく目を向ける……が、先ほどと一つも変わらぬ女の端正な顔が、カラスの眼前にあった。 喉元へ容赦なく爪を立てられているというのに、痛がるわけでもなければ、抵抗をする様子もなく、青い瞳がじっとカラスの目を見据え続けている。 「なんだ、こいつ……」 カラスの親指の爪には、間違いなく女から剥ぎ取った少量の肉が詰まり、赤い血を滲ませていた。 それなのに、いくら力を込めようとも女が動じることはないのだ。 あまりの反応のなさに背筋が凍る。 『あちゃー。手ぇ出しちゃったよ……』 今までよりもさらに低調の声が機械から聞こえたと思った瞬間、女の左手がカラスの顔面を覆うように伸ばされる。 「カラス――……!」 この時、キナリにはどういうわけか女が直後に取るであろう行動がはっきりと予感できた。 総毛立つのを感じ、慌ててカラスの名を呼び掛けるのだが、すでに制止できる状況ではない。 意表を突かれて緩んだカラスの両手が首から外れると、女は展転し、咄嗟の間に少年を押さえ込む。 カラスもそれを振り払おうと力を込めるも、女の四肢はびくとも動かない。 虚弱そうな外見からは想像もつかない力量だ。 なすこと全てを妨げられてしまうことに憤懣とするカラスへ、女の右腕がふっと振り上げられた。 手に握られたナイフが凶暴に輝く。 女を止めようとキナリも這いつくばって近寄ろうとするが、全く間に合わず、狐疑ない一撃がカラスを襲った。 女の操るナイフはカラスの喉頸を貫き、多量の鮮血を噴かせたと思えば、すぐに引き抜いた刃を再度煌めかせ、少年の顔へと追撃を見舞う。 キナリは、度々に全身を引き攣らせるカラスと、やはり表情一つ変えない女の様子をただ傍観することしかできない。 飛散したカラスの血液の臭いは、舞い上がった埃と混じって強烈な刺激を運んでくる。 きっとこれは悪い夢だろうと、根拠のない願いに耽るキナリの想いも届かず、気が済んだように女が立ち上がった頃には、カラスは真っ赤に濡れて気を失い、首筋と頬に開いた傷口からただ血を垂れ流していた。 動かなくなったカラスを見下ろしていた女が、思い出したようにキナリのことを見返る。 白い首には深い引っ掻き傷が痛々しく残っているが、それを感じさせぬ鉄仮面のような無表情が少女を迎える。 ほんの数歩だけ歩いてしゃがみ込むと、返り血まみれの女の顔がキナリの視界を全て支配した。 もはや生きた心地などしないが、やはり躊躇いもなくナイフを持ち上げる女へ、キナリは震える声を振り絞る。 「い――言うことは、聞く」 女の氷のような瞳は揺るがない。 「抵抗も、しないから……」 命乞い。 これが情けないとか、みっともないとか、そんな感情はない。 キナリもカラスも、人生を始めたばかりだからだ。 しかし運の尽きだけはすでに痛切に感じている。 女には言葉も感情も伝わっていない様子だし、戦慄のせいで手も足も石のように重く動かせない。 そんな丸腰の少女のどこへ身を埋めようか、ナイフの刃先が行き先を決めるように少しの間だけ振れた後、キナリの左胸へと向けられる。 自身の胸部を一旦見、再び女へと視線を戻したと同時、左胸に冷たい激痛が走った。 視認する必要もない。 ナイフの大柄な刃の半分以上がキナリの中へと入り込んでいた。 ほとんど声にならない悲鳴を漏らし、見開いた双眸で女を見る。 血の通っていないような冷酷な表情だ。 刃が引き抜かれ、胸の傷を押さえて蹲るまでの短い時間だったが、キナリには女のことが慈悲のない人間にしか映らなかった。 震える息が、傷を塞ぐ自分の手に当たる。 湿り気を帯びた空気に濃い血臭が漂い、止めどなく流れる体液の温かさを実感すると、次いで嗚咽が溢れ出てきた。 これ以上、まだ何か起こるのだろうか。 状況整理の追いつかない脳が逞しくも次の危機を想像していると、聞き覚えのある低い声がキナリの耳へと届いた。 「ほらァ、言わんこっちゃない……!」 女の所持していた機械から聞こえていた声だ。 耳障りだったざりざりした音はしない。 ゆっくりと顔を上げてみると、女よりも一回り以上大きな体をした男が、ドアを開け、部屋の中へと入ってきていた。 どうやらこの男が先程の声の主で間違いないらしい。 肩で息をしながらゴミ溜めのような部屋を掻き分け、次の的を見定め始めていた女を背後から羽交い絞めにした。 脊髄反射的に暴れ始めた女へ声を荒げる。 「アカアリ、やめっ……ストップ、ストーップ! はーい、もう終わり!」 「……」 額から汗を流す男をゆっくりと振り返った女は、何かしらを思考したのか、間を空けてからもう一度両腕にぐっと力を込める。 しかし、なかなか外れそうにないのを察して諦めたのか、右手のナイフを床にぽとりと落として項垂れてしまった。 なおも瞳はキナリのことを眺めているものの、一段落したとみて良いだろう。 男の方も大きく深呼吸をつき、ようやくキナリへと視線を向けた。 「悪いね、こいつ聞かん坊でさ」 薄っすら髭の生えた顎で女の脳天をぐりぐりと押す。 見るからに不快そうな行為だが、やはり女は死んだように同じ顔のままである。 男が襲い掛かってくる気配はない。 それだけを確認すると、キナリは小さく呻き、蹲り直す。 出血は止まらず、床に溜まり始めていた。 男は女を解放し、カラスとキナリを順々に眺める。 「いやはや……いつものことながら凄惨だな」 言って、男は放置されていたナイフを拾い上げ、あぐらを掻いて座る女へと手渡す。 それからカラスに近寄って上半身を起こしてやると、幅広の肩に少年の細い腕を回して担ぎ上げた。 その動作の中、ちらりと見えたカラスの顔面は血で赤く濡れており、目、頬、首、肩の広範囲に大小様々な刺し傷が見受けられる。 「五分くらい歩いた先に車を用意してある。この街は整備されなくなって久しいせいで、道が悪くて近くまで乗り合わせられなくてね。少年は俺が持ってくとして、嬢ちゃんの方は歩くくらいできそうかな?」 男の声が自分へと投げられているのを感じ、徐々にだるさが増していく中、目だけを男へ向けるキナリに、意地悪な笑みを浮かべる。 「怖がっちゃって、可哀想に」 同情、なのだろうか。 それにしては少しばかり冷めているようにも聞こえるが……痛みと失血で意識も朧な今のキナリには、僅かなニュアンスの違いを見抜くほどの判断力はなかった。 男の方も端から分かった上での発言らしく、何事もないように自己紹介を簡潔に済ませる。 「俺がムロビシで、こっちの女がアカアリだ。さっきも話した通り、俺たちは君らを保護するために廃街まで赴いてきたってわけ。大人しくついてきてもらえるかな? ……とまぁ、こんな雑な説明じゃ納得は行かないだろうし、その怪我を放って立ち話しても良いことはないやね。さっさと移動しよう。それに――」 アカアリと呼ばれた女が、キナリの襟を引き上げ、強引に立ち上がらせる。 ふらつきながらも倒れず体勢を維持したキナリへ、ムロビシはまた、意地が悪そうに笑って言った。 「そんなにアカアリが怖いんじゃ、ここでノーとは言えないもんね?」 | ||
←前 | 本編一覧 | 次→ |