1章 雨毒と廻人(4) | ||
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――混濁した世界が延々と続いている。 目の前は全て黒く塗り潰されていて、身動きも取れないほど、重たい泥のように纏わりついてくる。 その感覚に逆らうこともせず、一体どれほどの時間、体を預けていたのだろうか。 恐らく分秒の単位ではない。 相当に長い時間、思考を停止させて天を仰いでいたような気がする。 もしかしたら、このままずっと変わらないで終わるのかも知れないとさえ思うほどに。 ところが、脳に走ったチクリとした痛みと共に、目覚めの時は突然訪れる。 沈殿していた暗闇は一瞬の明滅を経て鮮血のような真赤の世界へと姿を変えた。 呆けている場合ではないと嗾けられているようだ。 遠くに聴こえていた鼓動が次第に大きく感じられるようになると、取り取りの感覚を認識し始める。 ゆっくりと瞼を開ける。 長らく振りの動作だ。 視界は赤の世界から脱し、転じて淡い緑一色に包まれる。 少し眼球を動かしてみても、周囲に何かがあるわけでもなく、色以外の情報は得られない。 焦点も合わず、全てが朧気にしか捉えられない状態である。 寸刻そうしているうち、脱力しきった体が浮遊していることに気づく。 (浮いてる……) 以前も経験したことのある感覚だった。 あの時も、こうして淡い光に刺激されていくうち、何か大変なことを思い出したような――。 ぼんやりとした意識のまま記憶を手繰り寄せていると、口からごぽりと音を立てて息が漏れた。 目の前を、呼気が泡状になって遠ざかって行く。 歪んだ円形の数々が不規則な軌道を描いて姿を消す頃、また、針で刺されたような痛みに襲われ、ハッとする。 (泡――……?!) 焦燥した。 いつまで経ってもぼやけたままの視界。 重力を忘れて揺蕩う体。 視認できる呼気。 それはつまり、自身が水の中にいるということではないか。 果たしていくら持ち合わせているかも分からない本能によって、このままでは溺れ死んでしまうことを肢体の端々にまで伝達されると、大量の泡を口から吐き出しながら手足をばたつかせる。 全身を包む液体は生温く、多少の粘度を持っているようだ。 どちらが上で下なのかも判別がつかないまま大暴れした末、右手の中指が何かに触れた。 慌ててそちらへ体を寄せて腕を伸ばすと、ちょうど指が引っ掛かかりそうな部分を探り当てる。 指先に力を込めて体を引き上げると共に、カラスの頭部はようやく水面を破った。 長い、黒い前髪が、濡れた顔に貼りついて視界を狭めている。 空気を吸い込む前に、口からは大量の水が垂れ落ちる。 知らぬ間に飲み込んでいたのだろうか。 間髪入れず咳き込み始めたものの、それも数回ほどで落ち着きを取り戻す。 「あ、あれ……?」 音を立てて水を吐き戻したが、元来、この程度で解決するものなのだろうか? 無意識に防御反応を示した体も、水に対する知識を持っていた脳も、難なく呼吸を行えるようになっている自身の状況が理解できない……そんな違和感。 気づけば足を着いて立姿を取っていた。 誤飲した液体が体内に後切れ悪く残っている気がして、空咳をしながら眼下の水面を見下ろしてみれば、見覚えのある黄緑色の液体が揺れる。 着たままの衣服や自身の脚が見て取れるほど透明度は高い。 厚みのある硝子のようなものでできた容器の中、カラスの胸の辺りまであるだろうか、僅かに自光する不思議なそれを掌に掬って眺める。 (ジジイの部屋にあったのと、おんなじヤツっぽいな) 手を傾け母体へ流し戻す。 ただの水よりも少しばかり粘り気を帯びていて、肌から離れるのに水とは異なる感覚だ。 そういえば初めてこの液体から這い出したときも、体に纏わりついてきたせいで余計に床を濡らした記憶があるが、それもいつの間にか乾いていたなぁと、上向いて思い返す。 以前は見られなかった、液体の中を行き来する帯状の光を気にしつつ、視界の邪魔をする前髪を頭頂部まで掻き上げ、容器から出ようと縁へと目を向けると。 「おわッ!?」 白い髪の人間がいた。 雪みたいに白い肌に埋まる、眠たそうな青い双眸がカラスのことをじっと見つめている、それは――総毛立つほど恐ろしい記憶の根源である女だった。 少年にとっての初めての恐怖体験を仕掛けてきた張本人は、容器の縁にへばりつくように待機し、何をするわけでもなく、トラウマに青褪める獲物をひたすら観察しているよう。 カラスが捉えた女の様子は、ひとまずそれが最後だった。 反射的に驚嘆の声を上げ、後退。 しかしあまりに急いたために足を滑らせると、再び全身は液体の中へと逆戻り。 勢いは死に切らず、容器の反対側面へ後頭部を強打してしまう。 それなりの痛みはあったが、今はそんな小さなことに構っていられるような心境ではない。 すぐさま立ち上がり、髪を退かし、女との距離を最大限広げられる場所へと後退る。 「お、お前っ! あん時のバカ強ぇ女――!」 相方の少女と共に薄暗い地下室を出、さらなる自由を求めて外へと繋がる場所を探していたところへ突如現れた悪魔のような存在。 瞬きをする余裕もないまま圧倒されたことだけは覚えている。 細長い四肢で覆いかぶさるようにして、真っ直ぐに見下ろしてくる青い目には、自身が老人を絞殺する瞬間に湧き上がってきたような高揚感も、相方の少女の目に絶えず浮かんでいたような不安感も、何もなかった。 今と変わらぬ無感情のまま、ただ作業的にナイフを振るい、何度も、何度も、カラスの顔や首を傷つけ続けた。 当時の形容し難い痛みを思い出すだけで背筋が凍る。 女は、強張るカラスから目を逸らすことなく、だからと言って襲い掛かってくるような素振りも見せず、不可解な姿勢を保って静寂している。 全く反応を示さない女と、容器に背をつけ対峙するカラス。 今度はその首元へ、ひんやりとした何かが触れると同時、聞き慣れた声が鳴った。 「――やっぱり、塞がってる」 囁くように届いてきた声は、カラスの右耳元から発せられたようだった。 立て続けに予想外な出来事に襲われるために、情けない悲鳴を上げ、大仰に驚き振り返ると、キナリの顔が眼前にあった。 中途半端に伸ばしていた右手を体に引き戻し、彼女は至極平凡な挨拶を投げてきた。 「おはよう」 僅かに茶色みがかった白髪を後頭部で結んでいる。 確か腰ほどまであったはずだが……片目を隠していた前髪も一緒に結っているため、かなり印象が変わって見える。 カラスと同様、服を身に纏い、隣同士――アカアリとは反対側、カラスの背後に設置された別の容器の中、やはり黄緑色をした怪しげな液体に浸かっていた。 先ほどカラスの首に触れたのは、どうやらキナリの指だったようだ。 安堵して息をつくが、この調子では全く気が休まりそうにない。 特に、あの不気味な女がいるせいで……。 「びっくりさせんなよ、アホ」 「アカアリにやられた傷、塞がってるかどうか確認したかっただけ」 「あぁ、そう言われてみれば……」 指摘された傷口に触れる。 顔に三箇所、首に二箇所。 それぞれの傷を、柔らかな肉が凹んだ状態で塞いでいる。 意識してみるとまだ痛んでいるのが分かるが、完治とは言えずも、かなり良くなっているようだ。 「で? アカアリってのは、そこの女のことか」 「そう。カラスを返り討ちにした人」 「うっせぇ。そんなやつがいる前で、オレらは何でノンキに風呂になんか入ってんだ?」 「それは――」 キナリの表情が曇ったと思った瞬間、アカアリの方向から別の声が飛んで来る。 「それは、おいちゃんからご説明いたしましょう」 これも聞いたことがあった。 容器にぶら下がるようにして居座るアカアリの背中側、十数歩ほど離れた位置にあるドアから、体格の良い中年の男が姿を現した。 清潔感に欠ける無精髭を蓄え、似たように不潔そうなボサボサの髪を一つに結んでいる。 両手には板のようなものを大事そうに抱えており、その上にはいくつか物が乗っているのを確認できる。 「おっさん、あん時のややこしいこと言ってたヤツだろ」 「はは、ご名答!」 すぐさま思い出したらしいカラスに対し、調子良さそうに話す男。 「アカアリに持たせてた通信機越しにね。まぁ、それもアカアリとカラスくんが喧嘩してるうち壊れちゃったんだけど」 言葉を交わしながら三人が密集する容器へ近づき、傍にあった何かしらの機器の上に荷物を置く。 トレイに乗せられていたのは、どうやら人数分の飲み物と食べ物のようだ。 具の少ないスープとパンのほかに、卵焼きのようなものがあるが、これだけは目に見えて少量だ。 「さっ! 聞きたいことは山ほどあるんだろう? メシでも食いながら親睦を深めようじゃないの」 カラスとキナリは互いに見合う。 キョトンとした様子の二人へ、木箱に腰掛けた男はすぐに提言する。 「そこから出ておいで。足、滑らせないようにね。タオルもあるから、ちゃんと水気拭きなよ。この部屋、暖房入らないんだ」 「……」 「大丈夫だって。おいちゃんは君らみたいなガキんちょを取って食うほど見境なくはないし、そこにぶら下がってるアカアリも、刺激しなきゃ昨日みたいに暴走するこたぁないよ」 まるで二人の思慮を見透かすかのように、男は次々と言葉を口にしていく。 その催促に先に応えたのはキナリだった。 容器の縁によじ登り、一旦腰掛けてから外へと出る。 着地の際に少しよろめくが、倒れることなく体勢を整えると、容器に繋がる管材にかけられたタオルを手に取り広げ、肩周りを包むようにして巻きつける。 一連の所作を終えると、警戒心あらわに口をへの字に曲げるカラスを振り返った。 「どうせわたしたちだけじゃ何もできないと思う。だったら話ぐらいは聞いておくべきじゃないかな。それに……」 にんまりして二人を眺める男と、その隣に置かれたトレイに目を配り、再度カラスへと視線を戻す。 「おなか……空いた」 キナリのその一言を聞いた男が盛大に吹き出し、笑う。 「こりゃいいや! ほら、女の子がこんなに勇気出してんだ。いつまでもじっとしてないで降りてきたらどうだい。そりゃあ俺ぐらいの歳にもなりゃ、君らみたいな子供を言い包めるのは朝飯前だけどね。そのタイミングは今じゃなくたっていくらでもある。さぁて……他にどう言えば、そのビビりは収まるのかな?」 男のそれは、あまりにも分かりやす過ぎる売り言葉だが、カラスを誘うには十分だったらしい。 どの目にも明確に映るほど、カラスの顔には怒りの感情が沸いた。 図星だったのかな、とキナリは静かに鼻を鳴らす。 「分ぁったよ、そっちに行きゃいいんだろ、クソッ!」 別にこんな女のことが怖いわけじゃないからな、とか、オレから聞きたいことなんて一個もねーけど、とか……誰も問いかけもしていないことをぶつぶつ呟きながら、キナリと同じような経路を通って、男の真ん前、床にどかっと座り込む。 その後を追って床に飛び降りたアカアリも、猫背を晒してヒールを鳴らし、カラスのすぐ左隣に腰をおろし、あぐらを掻いた。 案の定肩を震わせるカラスのことを、穴が空くほど見つめる。 「うん。俺としても、それが一番賢明な判断だと思うね」 満足いったのか、男はわざとらしく何度も頷いてみせた。 | ||
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