1章 雨毒と廻人(6) | ||
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ムロビシとアカアリの背を追うように、少年少女は冷え切った廊下を進む。 床は一面、剥き出しのコンクリート材。 そこを靴も靴下もない素足の状態でぺたぺたと歩いていく。 小刻みなリズムに乗って、二人の手に収まる食器が揺れ、甲高い乾いた音を立てる。 アカアリの不格好な足音も仲間に加わって、誰も喋りはしないのに随分と賑やかなものだ。 壁に目をやれば、床と同様の材質のところどころにコードが這うように駆け巡っているのが見える。 弛んだりしていないことから設置した人間の几帳面さが伺えるが、ムロビシが取り付けたのだろうか。 まさかアカアリがやるわけもない。 キナリは食器を落とさぬよう、僅かに体に力を込めながら思う。 星霜匣の設置されていた部屋の分ほど歩いた頃、薄暗い通路の片側の壁に、突如ぽっかりと穴が開いた。 大きなガラス窓だ。 無意識に足を止めた二人は、そこから外の景色を眺め――驚嘆の声を上げる。 「でっけー……」 カラスの率直な感想を耳にして、振り返るムロビシが言う。 「あれが〈ヨサメ〉だ」 落ちてきそうな黒い空がどこまでも続く空間に、塔のような建物が厳格に聳えていた。 かなり離れた場所にあるようだが、その大きさのせいで周辺の小さな建物との縮尺がちぐはぐに感じられる。 眩いばかりの白い壁面は上部へ向かうにつれて細くなる流線を形成し、雲に届く手前で途切れ、恥部を隠すかのように赤と青の旗を巻きつけ、その尾鰭を風にはためかせている。 土台となる部分は、街を割き、地面に根づくように広がっており、さながら大樹の様相だ。 「黒い煙の兵器……」 太陽の光が多く遮断された世界で唯一輝いて見えているのが兵器とは、およそ皮肉のようだ。 キナリはそんなことを考えつつ、先ほど聞かされていた話を思い出して呟く。 ムロビシも〈ヨサメ〉を見つめながら、心奪われる幼い二人に話す。 「高さが大体四〇〇メートル、発射口の直径は七メートル。世界中を探しても、あんなに目立つ兵器は他にないだろうな。空一面に浮かんでる黒い雲は、全部〈ヨサメ〉が一発で撃ち出した物だ。そんでもって、あいつが気まぐれに降らす黒い雨ってのが諸悪の根源……。誰が言い始めたのか知らないけど、巷では“雨毒”って呼び名が定着してるね。あらゆる生き物に対して毒をもたらす雨……何の捻りもないけど、分かりやすくていい」 侮蔑を含んで鼻を鳴らし、男は再び歩き始める。 この説明の間も先に進んでいたアカアリは、すでにどこかへと姿を消していた。 これで何度目になるか、カラスとキナリは目を向き合わせる。 互いに何かを言うつもりもないのだが、反応に困ると自然と助けを求めるようになるらしい。 それを妙なものだと思いながらも、ムロビシに置いて行かれぬよう追いかけようとしたキナリから、カラスはひょいとパンを奪う。 「いつまでも食わないならもらうぞ」 了承もないままかじりつく。 止めようとしたキナリへ半分ほど残ったそれを戻そうとするが、「もういい」と器ごと突っ返され、代わりに持っていたスープ皿を奪われる形となる。 さすがに怒らせた原因が自分にあることは分かったが、急ぐように離れていくキナリを呼び止める気も起きず、残りのパンを口へと放る。 非常識なカラスの行動に憤るキナリが追いついたころ、ムロビシは補足を口にする。 「ちなみに、俺ら人間は未だにあの雨に打ち勝つ手段を知らないが、植物や昆虫たちの中には雨毒に当たっても平気な種が出始めてる。進化が早いのは羨ましいねぇ」 目的地らしい部屋への入口へたどり着く。 二人の姿を確認するためか、一瞬目を配らせたムロビシへ、カラスは文句をぶつけるかのように言葉を投げる。 「それを言ったら、オレら〈廻人〉だって大丈夫なんじゃねーのかよ」 「いや……多少の耐性はあるようだが、直接中てられちゃ駄目だね。こればかりは〈星霜匣〉でも治癒できないって報告が複数挙がってるし、生き抜くためには覚えておいた方いい。雨毒を回避するなら、降り始める前に屋根のある場所へ避難することが最低条件だ。インフラの整っている街中なら野外でも警報が入る。戸締まりのできる屋内にいれば、ひとまずすぐに影響が出るような状況にはならないよ」 言い終わると同時、部屋の内壁に備えられたスイッチを押す。 ぱちん、という快音と共に、じんわりと明かりが点ると、書類でごった返す正方形の部屋が現れた。 膨大な量の紙が積み上げられているが、老人のいた地下室ほど汚れているわけではなく、単純に収納スペースが足りていないらしい。 そうは言っても、限界を超えて崩れている書類群もあるが――。 小山のように崩れた紙の海を眺めていると、そこから突然、にゅるりと白い腕が生える。 驚きの声を漏らすカラスの反応を嘲笑うかのように、それは紙を大雑把にかき分けると、埋まっていた自身の顔を掘り当てた。 アカアリである。 どうやら他の三人が立ち話をしている間に真っ暗な部屋に入っていたらしい。 上を向いて倒れたまま無表情に天井を仰いでいる様子から、相手を驚かすというような遊び心が彼女にあるようには思えないが……。 「また悪戯したのか……」 一方、ムロビシは呆れたように肩を落とし、しかしこういった状況が珍しいわけでもないのか、ゆっくり彼女に近寄り書類をまとめ始める。 それをじっと観察していたアカアリだが、すぐに飽きたのか、両足を振り、その勢いを利用して立ち上がる。 手も使わずにするからだろう、ゼンマイ仕掛けのおもちゃを見ている気分だ。 目下で働くムロビシに悪びれる素振りも見せず、今度は部屋の小窓から外を眺め始めた。 やれやれと嘆きつつも作業を終えたムロビシが、腰を押さえて立ち上がる。 「犬猫の相手をしてるわけじゃないはずなんだけどね」 「それよか面倒くさそうだな」 「まったくだ」 心配するほどでもないが賛同するカラスに愚痴を漏らす。 ある程度まとめ直した書類を元あった机の上に戻すと、その机を避けるように左へ進み、複数の道具が鎮座する部屋の一角へと向かう。 ムロビシよりも背丈のあるものから掌大のものまで、大小様々ある。 「君らを保護した理由はコレだ」 中でも一番大きな金属製の器具を軽く叩くようにして触れる。 「身長計、体重計、血圧計に血液検査器具一式。そのほか〈星霜匣〉に備えつけられているメーター類も含め、全て健康状態を知るための道具だな」 ひとつひとつに触れたり、持ち上げたりしながら名称を呼称していく。 そう言われても何物だか理解できていないカラスとキナリの反応の薄さを気遣って、体重計という器具に乗ってみせた。 台の前に備わった秤の針が大きく振れ、やがて振り幅を狭めて細かい目盛りを目指していく。 「乗った人の重さを知るものだね。他のものも似たような使い方をするんだけど、注射器だけはちょっと違う」 「……見た目が優しくねーな」 「あながち間違ってないかな? 大雑把に言うと、腕とかにブスッと刺して、ピストンをギュッと引っ張って血を抜いたり、押し込むことで薬を入れたりできる、使用するにはちょっと痛みを伴う医療器具だね。まぁ、アカアリに刺されたときに比べたら痒くもないはずだし、安心してくれていい」 他人事だからだろう、愉快に笑うムロビシ。 実際に被害に遭った二人としては、そのあまりにも無神経な男に殺意すら抱かん勢いである。 気に食わない点は多々あるものの、部屋の中に関心がないわけではない。 二人の警戒心も今までに比べれば落ち着いてきた様子で、特にカラスは部屋の奥まで歩み入り、見たことのない物品の見学に勤しんでいる。 壁掛け時計、コンピュータ、冷蔵庫……どれもが目新しく、そして騒がしい。 カラスの手からいつの間にか棚の上に放置されていた食器をムロビシが回収するのを瞥見、キナリは慌ててスープ皿を口につけて傾け、中身を一気に飲み干す。 「実のところ、〈廻人〉の資料は圧倒的に足りてない状況でね」 口の周りについたスープを舌でどうにか取ろうと必死のキナリから最後の食器を受け取り、すぐ近くの洗い場へ全てを積み重ねると、ムロビシは改まったようにそう切り出した。 振り返り、簡素なキッチンの縁に寄りかかり、腕組み。 足は楽に放り出している。 「基本的な体の構造は元々いる人間――便宜上“旧人類”と区別されてる俺らと大差ない。とは言え、今後のことを考えて、辛抱強く調べておかなければならないことも多い。〈星霜匣〉の作用に個体差が顕れるのか、旧人類が雨毒で喪失した身体機能は正常に働いているのか……知るべきこと、やるべきことは山ほどある。生活面における情緒の観察やアドバイスを提供する代価として、データ採取に協力してもらいたいってのが俺たちの活動目的だ。どうだろう、さっきまで水に浸かってた割には髪も服も乾いてきてるんじゃないかな?」 言われてみれば……二人はそれぞれ自身の衣服を確認してみる。 肌に貼りつくほどずぶ濡れだったはずの髪や服は、完全に水気を失せて乾燥していた。 キナリの結んだままの髪ですら、その通りである。 「それも原理が解明しきれていない〈廻人〉に関わる不明点の一つだ。物は試しに、俺も〈星霜匣〉にざんぶり入ってみたことはあるんだけどね。少し粘性が気になる以外、ほとんど水風呂に入ってるのと変わらなかった。旧人類には何の作用もしないものが、新人類に対してだけ特殊な反応を見せる溶液……。肺に流れ込んだはずの水分も、使用者が目を覚ますと共に体内へ吸収されていくらしい。もちろん、これも〈廻人〉にのみ通用する話だ。まったく不思議なもんさ」 カラスが嫌そうな顔で、思い当たる節を話す。 「そういや、さっき起きたときも思いっきり水飲み込んでたな……」 「っふふ。ものすごい勢いで咳してるの、ここまで聞こえてきてたよ。もしそれを旧人類がやったら、死ぬかも知れない愚行だなぁ」 「何でちょっと楽しそうにしてんだ。殴られてーのか」 完全にからかわれているカラスの後ろ、キナリは不服そうにムロビシのことをじっと見つめている。 何か言いたげな少女に気づくなり、おどけたように眉を上げると、僅かに声色を鈍らせる。 「――君らを保護した理由、だったっけね」 ムロビシの視線が移ったことを察し、カラスもキナリの方を向く。 キナリはそれに対して罰が悪そうに自分の手元を見下ろすが、すぐにムロビシを向き直り、小さく頷いて見せた。 「何だよ……おっさんもキナリも、そういう難しそうな話したがりだな」 「カラスくんはもうちょっとキナリちゃんを見習ってもいいと思うけどねぇ」 「放っとけよ。こんなのがずっと続いたら体鈍っちまうっつーの」 居心地が悪いように、目に入ったソファへと飛び乗るようにして腰を下ろす。 穴だらけで中身も出てきているが、冷たい床に座るより遙かにマシだ。 むすっとしてムロビシとキナリを交互に見るが、特にめぼしい反応はない。 ムロビシはその場に居直ると、口を開く。 「正直に話そう。さっき紹介した道具や君らの普段の様子から取った、あらゆるデータ及びそれらの物的証拠となる物品は、新人類の研究機関に売り払うことになる。金と物々交換だな」 「カネ?」 「あらゆる物を入手するのに必要になる物さ。食い物も、着る物も、君らに必要不可欠な〈星霜匣〉も、ほとんどの場合は金がなければ手に入れることは難しい。昔ほどの抑止力はないが、人間社会には法律っていう決まり事があるもんでね。その辺を偶然通りかかった他人から追い剥ぎをしまくるなんてわけにもいかんのさ」 いまいち理解していないカラスとは違い、キナリは何となく結論の予想が立てられるところにいる。 不明点がいくつか、ぴたりと辻褄が合った気がしたのだ。 ムロビシは間髪入れず、なおも続ける。 「その収入のおかげで、俺やアカアリ、ひいては他の“保護班”のメンバーも飯にありつけている。もちろん、ここに保護される身でいる以上、君ら二人が衣食住に要する費用を賄う出処もそこだ」 「……保護班?」 キナリの小さな疑問にもすぐさま答える。 「俺たちが属する組織の名前みたいなものだね。新人類雇用推進派・保護班……これは追々話そう」 腕組みを解き、キッチンにもたれている腰部脇に両手を持っていく。 「特別難しい話でも、君らだけが損するような提案でもないだろ? こちらが人並みの生活環境を保証する代わり、二人には健康診断を兼ねてサンプリング調査に協力してもらう。強いて言うならば、採取した血液を始めとする諸々のモノが、見も聞きも知らぬような第三者の手に渡る点については我慢してもらわなきゃならない。……本来なら、新人類であるアカアリにも頼みたいんだけど、麻酔銃でもない限りはまともに検査できないってのは、君らの経験からも難易度の高さを理解してもらえると嬉しいかな」 好奇心もなければ、話の大半の内容を理解できずにいたカラスだが、アカアリが新人類であるという旨のみ聞き逃さなかった。 カラスがアカアリへ負わせたはずの首元の怪我も、今では綺麗さっぱりなくなっているのも納得がいく。 (っつーことは、ただ殴る蹴るしてもアカアリには勝てねーな……) 負けたままでいたくないという悔しさからだろうか、カラスの偏った興味はそちらの方向へと舵を切った。 対して、小さな身振りすらせず聞き入っていたキナリを向き、ムロビシは問う。 「さぁ。そうと知って、君たちはどうする?」 キナリに動揺の色は見えないが、すぐに返事が出てくる気配はない。 適当なことを言えない空気が漂っているのはカラスにも分かった。 話なんかどうせ聞いていなかったし、ここはキナリの返事を待つべきか。 カラスはそう思って呆けていたのだが、当然ムロビシも同じ考えであるため、ただただ沈黙が続いていく。 キナリを手助けするつもりはないが、このままでは窒息しそうだ。 「……オレはそれでいいぜ。大人しく言うこと聞いてやるっつー約束はできないけどな」 根負けしたカラスがそう言うと、ムロビシは変わらぬ調子で「はいはい」と相槌をよこす。 「年頃の男の子が相手だ。こっちも最初からそのつもりではいるけど、アカアリがいることは忘れないでもらいたいね」 「オレが暴れたらあいつに押さえさせるってか?」 「アカアリは俺にとっても危険な存在であることに違いはない。声掛けを一つ間違えるだけで死に目を見たこともたくさんある。アカアリを怒らせないように生活しなきゃならない状況はお互い様だってことの確認だな」 すぐに話をまとめてしまったカラスを横目に、キナリは胸の辺りで祈るように指を軽く組む。 「わたしは……」 知りたいと思ったことを尋ね、ムロビシはそれに答えてくれたのだとは思う。 しかしそれは同時に、即座には咀嚼できないほど酷薄なものだった。 カラスは今までの一連の説明をどのように捉えて了承したのか分からない。 もしかして、深く考えずにいるのだろうか? そうだったとして、では自分だけが同行を拒否したところで、これ以上事態は好転しようもないのではないか――。 少女の頭は、甲乙つけ難い葛藤に悲鳴を上げていた。 ふと、窓際に佇んだままのアカアリと目が合う。 人一人いない外の景色を見るのにも飽きたのだろう。 三人のやり取りを無言で、無感情に眺めていたようだが、内容を理解しているわけでもないはず。 それなのに――彼女の青い瞳に、何かしらの思考が浮かんで見えた気がした。 早く答えを出さねばならないという緊迫感からの思い込みもあるのかも知れないが、それでもキナリの気分は大きく転換した。 ある決意を胸に、ムロビシに向き直る。 | ||
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