1章 雨毒と廻人(7)
「……お願いがある」
「いいよ。話してごらん」

 不安そうな上目遣いではあるが、これまでと違って視線を逸らすことはしない。
 寡黙だったキナリが意思を見せた瞬間である。
 少女の切り出し方は意外だったのか、はたまた予想の範囲内だったのか。
 ムロビシは何も語らずにんまりして、姿勢もそのままにキナリの言葉を待つ。

 度胸を試されているようで快くは思わない。
 しかし、すでにここまで吹っ掛けてしまったのなら、喉奥まで出かけた言葉を飲み込むのはもったいないのではないか。
 掌がしっとり汗ばんでくるのを感じて指組みを解き、ぎこちなくも伝えるべきを吐く。

「……わたしたち、まだまだ知らないことがたくさんあると思う。きっと分からないことばかりで、いま、全部を質問し切ることはできないくらい。だから、疑問に思ったことはそのとき一つずつ訊いていくから、ムロビシには応えて、教えて欲しいの。それで、もし、ムロビシが嘘を言っているんだと思ったら――わたしはここには居られないかも知れない。それだけ約束してもらえるなら協力する」

 少ない語彙から選りすぐった言葉を繋げたキナリの主張は、迷いを浮かべながらもそこで完結したようだった。
 ムロビシは「なるほど」と頷くと、側にあったペンを手に取り、話を聞きながら書類の裏面に何かを記し始めた。
 相当緊張したのだろうか、小刻みに指先を震わせるキナリがほうと浅い溜息を漏らして俯く。
 心労募る相方を横目にしたカラスは、ムロビシが書き終えるまでまだかかりそうなのを察し、合いの手のように間を割る。

「オレも最初っからそのつもりで返事してるからな。テメェらにあれこれ素直に従う気はない」
「あぁ、肝に銘じておくよ」

 ほとんど聞き流すようにカラスをあしらうと、ペンを机上に放り投げ、手書きの文面を顔の横に掲げた。
 裏の文面が透けて見えてしまっているが、それを隠すように大きな文字で四行、何かが殴り書きされている。
 窓際にいたアカアリは、ムロビシの手から離れたペンをいじりに数歩分だけ移動して、また静かに静止した。
 目はムロビシが持つ紙を追っている。

「じゃっじゃーん! どう?」

 やたらと大きな声を上げ、拍子抜けする少年少女それぞれへと紙面を向ける。
 ぞんざいな扱いに苛立ちを見せるカラスが舌を打つ。

「どう、じゃねーよ。オレの話、ちゃんと聞いてたのか」
「聞いてた聞いてた」

 おそらくほとんど聞いていないような相槌が、再三カラスの言葉を撥ね退ける。

「さっきキナリちゃんが言ったことと、それに対しておいちゃんが取るべき行動を箇条書きしてみたんだよね。まぁ、ここまで常識的なことをわざわざ書き留めるってのもおかしなもんだが……」

 高人口密度の部屋を横歩きで移動し、手に持っていた紙を、テープを用いて壁に貼り付ける。
 上の二角のみを留めて一旦離れるものの、すぐ不満が湧いたのか小首を傾げ、下二角も同様にきっちり留めると、今度こそは満足いった様子だ。
 軽く紙を叩いて振り返る。

「破っちゃならん契約事ってことでここに貼っておくよ。二人とも字は読めないんだったね? 勉強したいっていうなら仕事の合間に教えよう。このメモも直に読めるようになる」
「オレは興味ない」

 念押し主張する少年を小馬鹿にするように、無精髭の生えた口端を上げる。

「だろうねぇ。キナリちゃんの方はそうでもない風に見えたけど、どうだろう?」

 ムロビシの問いかけに、キナリは一寸の迷いもなく肯定する。
 少女にとっては、この上なく関心のある事柄だ。
 自分から頼み込む手間が省けてラッキーだったと、先程までの緊張はどこ吹く風、内心は晴れやかな気分でさえある。
 ころりと目の色を変えたキナリを落ち着かせるよう、体の前に両手を挙げてジェスチャーを取る。

「了解、了解。幸い、教材に打ってつけの本と書類は山ほどある。例えばそうだな――これとかいいんじゃないか?」

 部屋の中央に鎮座する大きな机。
 その椅子の真ん前にあった四枚留めの書類を手に取り、キナリのか細い両手へと渡す。
 しかし、これだけ会話ができる割に相変わらず字は全く読めない。
 分かりきっていたはずのその事実にキナリは少しだけ落ち込むが、一枚目を眺め終えた頃、あることに気がつく。

「これ、地下室にあったやつ……」

 そういえば、持って帰ってきた書類があるとムロビシが話していたのを思い出す。

「二人の出生に関わる書類だったよ。主文の一行目、これが『カラス』で、その一つ下が『キナリ』って読む。じいさんが君ら二人にちゃんと名前を与えて、なおかつどちらも最初からその事項を記憶として認識していたって証明になる部分だ。……この辺りのことは、書面を読み進めながら話した方が混乱しないかもなぁ。まずは自分らの名前を読み書きするところから始めっかね」
「うん――」

 食い入るように文章を眺めるキナリに呆れた様子で、カラスはソファから立ち上がる。
 すっかり忘れていた床の冷たさに一瞬身震いする。

「……おっさん、オレはあのヨサメとかいう建物が気になんだけど。どこから外に出れんだ?」
「あぁ、案内しよ――あっ!」

 言葉の途中で何か閃いたように声を上げる。
 急変したムロビシの語調に、カラスは驚いて目をぱちくりさせる。

「な、なんだよ!」
「いや、外に出るついでにちょっとしたお手伝いをしてもらおうと思って。なぁに、体慣らしにちょうどいいくらいの雑用だよ」
「面倒くせー。やらねー」
「めんどくない、めんどくなーい」

 男二人の会話を無視して自分の世界に没入していたキナリの手から、書類がひょいと奪われる。
 不意を突かれて「あっ」と呟く少女の手前、ムロビシが面目なさそうに歯を見せる。

「悪いんだけどさ、キナリちゃんも付き合ってよ」
「……」
「おいちゃん、約束は守る男だよ? でもね、奔放なカラスくんだけだとどうも信用に欠けるのよ。勉強については後回しにしてもらえないかな。この通り、頼んます!」

 大袈裟に顔の前で手を合わせる男に圧され、キナリは渋々了承する。
 良く言われなかったカラスはやはり文句を垂れ流しているが、いい加減ムロビシも小言の相手をすることすら飽きたらしく、無視を決め込み、再び廊下に向かいながら「こっちこっち」と手を招き、話を続ける。

「さっきちょこっと話した雨毒に順応した植物のことなんだけどね。一度生えたら増えに増えまくっちゃって、建屋の周り一面を覆わん勢いで……放っておくと湿気はひどい、虫も住みつくで堪らないから、草刈りをしてもらいたいんだ」

 星霜匣のあった部屋とは反対方向を進むと、鮮やかな橙色に塗られたドアが現れた。
 その脇、壁に立てかけられていた二つの刃物をそれぞれ二人に差し出す。
 不貞腐れていたカラスだが、興味を持ったらしく、何も言わずに受け取る。

「鉈と鎌ね。仕事が落ち着いたときに俺一人でやってはいるんだけど、なかなか追いつかなくて困ってたんだよ。とは言え、まさかアカアリが手伝ってくれるわけもないでしょ? おいちゃんの体を労るつもりでさ、ねっ!」
「……わたしもやるの?」
「勉強は雨の降っているときにやろう。明日の昼頃までは曇り空のまま持つらしいから、今のうちにしかできないことを片付けましょう! はい!」

 なおも渋るキナリにほとんど無理矢理に鉈を持たせて、ドアを開け、二人を外へと押し出す。

「刃物だから無闇に振り回さないように。カラスくんは特にね」
「やんねーよ! 草刈り自体やらねー!」
「その辺は二人の自主性に任せるよ。断りもなく遠くに行かれるのだけはご遠慮いただきたいけどね。おいちゃんは溜まってる仕事の片付けに入りまーす」
「キナリだけじゃなくてオレの話も聞け!」
「なるべく根っこの方から刈り取るようによろしくー」

 ひらひら手を振るムロビシがドアの奥へと消えていく。
 がしゃん、と完全にドアが閉まると、いよいよ二人は困惑と憤怒に駆られる。
 ひんやりと湿っぽい一陣の風が吹きつける中、キナリが先に口火を切る。

「わたしたち、良いように遣われてる気がする」
「……そうやって思ってる割には大人しかったな。もっと言い返してやったらどうなんだよ。聞いててイライラする」
「言い返したところで、たぶん勝てないんじゃないかな」
「だったら――!」
「殴りかかったとしても、あんなに近くにアカアリがいたらまた返り討ちにされただけだと思う。今のわたしたちには、ムロビシの隙を突いて逃げるようなことはできない。保護っていうか、捕縛?」

 力のない、情けない表情のままのキナリだが、直感だけでは彼女にすら勝てそうにないとカラスは悟る。
 言い返す言葉も思いつかず、眉間に皺を寄せたまま激情を抑える。

「……難しい言葉知ってるんだな」
「知ってるのは意味と音だけ。字は読めないし、書けない」
「何でそんなに字にばっかりこだわってんだよ」
「それは……自分でも分からない」

 カラスに指摘されると、癖なのか、視線を下げて指を組む。

「でも、ムロビシにはすらすら読めているものが一文字も理解できないのは、なんていうか、悔しくて仕方がない感じ。カラスがアカアリに力負けして悔しがってるのと一緒だと思う」
「悔しいわけじゃねーよ。あの女がぶっ飛びすぎて強いのが気に食わねーだけ!」

 ムロビシに渡された鎌を振り回して、自分の背丈ほどまで伸びた草を刈る。
 図星なのを隠すため、あるいは鬱憤を晴らすための行動にしか見えないが……。
 草刈りはしないとか、刃物を振り回すことはしないとか言っていたことについて揚げ足を取るのはやめておくことにした。
 その代わり、カラスの興味を刺激していたらしい物を思い出して、キナリは催促する。

「ねぇ」
「なんだよ」
「ヨサメ、見たいんじゃなかったの?」

 はっとして振り返るカラスに、遠くに聳える巨大な建造物を指差す。

「屋根が邪魔で見えづらいかも。裏に回り込んだ方が――」

 キナリのアドバイスが終わる前にカラスは駆け出していた。
 裸足のままばたばたと走っていく少年の姿を、窓ガラス越しに笑うムロビシがキナリの視界に入る。
 自発光する機械と書類を交互に見ている。
 あれが仕事というものだろうか。

 カラスの後を歩いて追いながらムロビシの一挙一動を観察していると、一度は閉じたはずのドアが再び音を立てて開いた。
 慌ててそちらを注視する。
 そこには、手ぶらのまま鉛色の空を見上げるアカアリがいた。
 ムロビシの介助もなく、一人だけで出てきたようだ。
 草刈りを手伝うわけではなさそうだが、キナリに何か仕掛けてくる様子もない。
 初対面の際の印象があまりに強烈だったせいでアカアリに対する警戒心は並大抵のものではないが、もしかしたら彼女の普段の姿は、ちょうど今のような状態なのかも知れない。
 微かにそう思ったものの、彼女から受けた仕打ちは簡単に心を許せるほど優しいものではなかった。
 念には念を、警戒を解かぬよう忍び足でカラスへ近寄り、アカアリの接近を伝えることにする。
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