1章 雨毒と廻人(8)
「カラス」

 アカアリの(かん)に障らぬよう、なるべく物音を立てずに小走り、丘の上に立ち尽くすようにしていたカラスへと声を掛ける。
 間違っても大声にならないようだいぶ声量を抑えているものの、そこには隠し切れない焦燥が表れており、決して耳に届かないようなものではないはずなのだが、カラスは一切振り返そろうとせず、視線はすでにある一点へと釘付けだった。

 草木の枯れ果てた荒涼とした大地の果てに見えるのは、白い、巨大な塔。
 金糸で装飾された赤と青の長旗に包まれて、まるで荘厳を絵に描いたようだ。
 その足下には数え切れないほどの小さな建物が群れを成している。
 先程も廊下の大窓から眺めたばかりの光景だが、周囲を壁に遮られていない分、さらに一回り大きくその存在を感じる。

 分厚い黒い雲から僅かに漏れているらしい陽光を巨大な身に受け、〈ヨサメ〉と呼ばれる兵器は神々しくも禍々しい輝きを纏い、カラスの好奇心を湧き立たせていた。
〈ヨサメ〉の何がそこまでカラスの気を惹くのか理解できないが、今のキナリにはその疑念を解消させるよりも前にやるべきことがある。
 呼び掛けに対するカラスの反応はないものの、不安を露わに言葉を続ける。

「アカアリ、外に出てきた。追いかけてきたのかも」
「……アカアリ?」

 心地の良くない名を耳にして、さすがに目線を逸らしてキナリが指し示した方向へと振り向く。
 カラスのその動きを確認してからキナリも同様にアカアリの姿を捉えるのだが――。

「なんだよ、こっち来ねーじゃん」

 二人の元へやって来ると思われた白髪の女は予想を裏切り、背を向けたまま少年少女の立つ場所とは正反対の荒野を目指して歩み出していた。
 足取りはふらりふらりと相変わらずも不器用で、靴の踵を擦るような音が途切れることなく聞こえている。
 それも彼女の姿が遠くになっていくにつれて小さくなり、ついには完全に消えていった。

 カラスが怪訝そうにキナリを見下ろす。

「オレたちに気づいてないんじゃねーの」
「……確かに、目は合ってなかったけど」

 ちょっとした失態をカラスに指摘されるのが納得いかない気持ちもあり、早とちりしたことを悔いる。
 善意のつもりが仇となって返ってきてしまった気分だ。
 これほどまでに気を張るのも、キナリにとってアカアリが天敵であることの表れであるのだが、同じく刃物で刺されるという恐怖体験を経たはずのカラスはいまいち危機感が鈍いような気がしてならない。
 地下室で彼が老人を殺めた際に覚えた違和感に通ずる感覚だ。
 アカアリのその後の動向を気に留める様子もなく〈ヨサメ〉を向き直るカラスに、今一度、互いの意識の違いを擦り合わせてみようと試みる。

「アカアリ、どこかに行くのかな」

 ごく普通の会話の流れだが、カラスは面倒臭そうな表情を浮かべる。
 キナリを一瞥しようとすらしない。

「……さぁな。あいつがいなけりゃ、オレらは安全ってことでいいだろ」
「でも、それってアカアリが外に出るのをムロビシは許したってこと? わたしたちには遠くへ行くなって言ってたのに」
「あのなぁ――」

 終着点のない問い掛けにうんざりしたらしいカラスが珍しく呆れたように息をつくと、細いキナリの左肩に右手を叩きつけられるようにして置く。
 その衝撃が伝播(でんぱ)して左胸の生傷が痛み、キナリは一瞬顔を歪める。

「一つだけ言っとく」

 凄みの効いた声色が唸る。
 キナリが次に前を向いた時にはカラスの顔が眼前まで迫っており、初めて見るような凶暴な感情を露呈していた。
 それを視認するなり、キナリは背筋は凍らせ、恐ろしさに息が詰まってしまう。

「そのクソどうでもいい話、オレの邪魔をしたくてやってんなら覚悟しろよ。オレがお前にだけ暴力振らないなんて言い切れねーぞ」

 彼の突発的な行動を理解できないままだが、慈悲もない双眸に睨みつけられ、地下室の一件や、アカアリと対峙していた当時のカラスを思い出してゾッとした。
 声が出せるような余裕はないが、ちゃんと話を聞いていることは伝えなくてはならないと、一回、二回と首を縦に振って見せる。
 するとそれを見たカラスは、案外すんなりとキナリの肩から手を離し、半歩後退。
 すぐに口端を意地悪そうに持ち上げた。
 つい先程まで放っていた鋭利な悪意は、すでに微塵も感じられない。

「……お前、ビビリだな」

 言って、ぽかんとするキナリをその場に置き、周囲に生えていた雑草めがけて鎌を振る。
 叩き切られた白っぽい葉がいくつか宙を舞っては力なく墜落していく。

「フリだよ、フリ。ま、嘘は言ってねーんだけど」
「ふり……?」

 カラスの語気の変化を掴み、どうやら気を緩めても良さそうだと判断する。
 緊張から硬直した全身の弛緩が上手くいかないのを感じつつ、囁くほどしか喉から出てこない声を振り絞る。

「あんましつこく話し続けるんなら、そういう事故もあるかも知れねーってこと。急に手出してびっくりされるより、先に注意しといた方がいいと思って」

 ざくざくと音を立てながら、一帯に生え揃っていた背丈の高い雑草たちの殲滅を楽しんでいるようだ。

「キナリはさ、ぜんぶ難しく考え過ぎじゃね? 今のオレたちじゃアカアリにもムロビシにも勝てやしない。だからあいつらに喧嘩を売るのは少しの間はやめることにしただけ、だろ? それ以外のことまで考えたって、どうせ答えなんか出るわけねーよ。あの二人がオレたちのことを都合良く遣おうとしてるように思えんなら、こっちも同じようにしてやろうぜ」

 やがて視界に入る雑草が消え失せたのに満足したのか、ようやくキナリを振り返る。

「今はそんな感じでいいじゃんか」

 いつものようにすっとぼけたカラスだと、キナリは安堵した。

 しかし、その口から放たれた言葉はキナリが計り知ろうとしていた範囲を大きく上回っていた。
 無知で無頓着なことを恥じるでもなく、驚くほど短絡的で、自分のしたいことを最優先するだけの単純な少年……かと思い込んでいたのだが、どうやらもう少しばかり視野は広いらしい。
 もちろん、彼が込み入った話になるとすぐに声を荒げるのは、単に深く思考を巡らせるのが性に合わないのも大きな理由だろう。
 だが、そうして話題を切り捨て意思表示したときには、すでに彼なりの答えは出ていて、次の問題点――何よりも、自身が強烈に魅せられる事柄に意識が集中してしまっているのではないか。

「……ダメじゃない。けど、わたしはそんな風にできないのかも」

 なんだ、一番無頓着なのはわたしじゃないか――。
 そんな弱音を飲み込んで、キナリはまるで関連性のない疑問をカラスに投げる。

「ねぇ。ムロビシから〈廻人〉のこと聞いてみて、どう思った?」
「またそういう……」
「〈星霜匣〉さえあれば便利でいいや、とか?」

 ややこしい話は聞き飽きたとでも言いたげだったカラスが、キナリの推測を耳にするなりぴたりと止まる。
 見事なまでに図星だった。
 言い返すこともせずムッとしてしまったカラスに、キナリは淡々と進める。

「カラスはアカアリに勝ちたいって言ってたけど、それとおんなじみたいに、わたし、ムロビシの言いなりにはなりたくない。いろいろ考えたりするのも、どうしても文字が読めるようになりたいと思うのも、どっちもカラスにはどうでもいいことなんだろうけど、わたしにはすごく大事なことなの。その逆で、アカアリと戦って勝ちたいって気持ち、わたしは分からない」

 最後の一言に眉尻を上げたカラスを無視してしゃがみ込み、すっかり存在を忘れていた鉈を使い、彼による乱雑な除草作業のせいで半端に残ってしまった草葉の処理を始める。

「……さっきのカラス、すごく怖かった」

 左手で数本まとめて握り、ムロビシの言っていた通り根元の方に鉈を押し当ててみると、鈍い音と共に地面から切り離すことに成功した。
 想像していた手応えと違うのが気にはなるが、おおよその要領はこんなものだろう。
 左手を振るって、死んだ草を放り捨てる。

「もしかしたら、もうカラスには頼れないのかもって。そしたら、わたし一人でどうしていけばいいんだろうって思ったし、それよりも先に、カラスに殺されちゃうのかも知れないとか、全部まとめて怖くて仕方なかったの。本気じゃなくて良かった」
「……本気のフリだっつってんだろ。ただの脅しじゃないぞ」
「フリなら、大丈夫。ほんとにそうなるまでは、一人じゃできないことも、二人で助け合えばなんとかなるような気がする」

 背中を丸めて刃物を重たそうにしながら振る少女は、俯きがちに呟く。

「わたしはそうやって、カラスに頼ったりしながら、戸惑っていくしかない……かな」

 段々と声が小さくなっていく。
 そのままこの場から消えていなくなってしまうのではないかと錯覚しそうなほどだ。
 彼女の暗がりな思考はまだしばらく改善されそうにないだろうと、カラスはある種、諦めがついた。

 キナリの手前、どかっと地面に直接腰を下ろして足を放り出す。
 澱んだ少女の顔が見える。

「そんじゃ、オレは体鍛えてアカアリをぶちのめすのが目標。キナリはお勉強してムロビシのおっさんを見返してやるのが目標。そんで、ここから抜け出したら〈ヨサメ〉まで行く」

 簡素で明解な目標がカラスの口から宣言される。
 これまでの会話にはなかったはずの〈ヨサメ〉到達がちゃっかり組み込まれていることを、キナリが聞き逃すわけもない。

「〈ヨサメ〉のことなんだけど」

 間髪入れず事に触れられ、カラスが不服そうに顔をしかめる。

「なんだよ。興味ないとか言うなよ」
「そうじゃない。ムロビシに頼んでみたら連れて行ってもらえたりしないのかな」
「どうやって」
「クルマ。カラスはアカアリにやられて気絶しちゃってたけど、すごく速く動く道具に乗ってここまで連れて来られた。わたしもあの時は余裕なかったから詳しいことは分からないけど、建物のどこかにあるはず」

 キナリの提案とその根拠を聞くなり、カラスは慌てた様子で立ち上がる。
 この調子だと、また今すぐにでも駆け出して行ってしまいそうだ。
 寸でのところでカラスを制止し、鉈を顔の横に持ち上げ、見えやすいように構える。

「その前に、ちゃんと草刈り終わらせよう」
「何言ってんだよ。それどころじゃねーって」
「こっちから頼み事、するんでしょ? だったら、先にムロビシからの頼み事終わらせなきゃ。アカアリが帰ってくるまで、こんな危ないもの持ってるのイヤ。下手に刺激したりして痛い思いしたくない」

 納得のいく道理だ。
 キナリの危惧する事態に転がれば、また〈星霜匣〉に浮かぶことになるだろう。
 その分〈ヨサメ〉にたどり着くのも先延ばしになる。
 今を急ぎたい気持ちがなかなか収まらないでもどかしいが、痛い目に遭いたくないのはカラスも一緒だった。

「……しゃーない。バレねーように適当にやるか」
「どうせバレるから、丁寧に」

 互いの性分を考慮して、補い合うよう行動する。
 少年少女が最初に覚えた、最も人間らしい行為の一つである。
 その進歩を実感することはないようだが、キナリの監視の元、二人の雑用消化が始まった。
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