1章 雨毒と廻人(9)
 煌々と輝くコンピュータ画面の前、ムロビシは頬杖をついて外を眺める。

 いつもと変わらぬ黒々とした曇天と、ただひたすらに続く荒涼とした大地。
 その先に数十軒の家々が建ち並んで見えるのが、カラスとキナリを発見、保護してきたキャレーと呼ばれてきた集落だ。
 農耕に適した広大な平地と緩やかな丘陵を有する農村として、首都であるロットラントにも大量の農作物や食肉を出荷していた。
 それがつい三年前までの話である。
 今はヨサメの放った雨毒によって潰えた、数ある町村の一端でしかなく、生き永らえている市街地では廃街(はいがい)≠ニ蔑称されるだけの廃墟と化してしまった。

 昨日までと違う景色があるといえば、雑草以外は何もない庭先を少年と少女が二人、自由気ままに練り歩いているということくらいか。
 あの黒い雲さえなければ平和そのものの情景なのだが……。
 この思考も、毎日繰り返している。
 あまりにも無為なものだ。
 浅く、素早く、鼻から息をふっと吐くと、画面の隣に置いてある電話の受話器を上げ、登録済みの電話番号を選択して、発信。
 呼び出し音を耳にしながら、道草に油を売りつつも着実に除草作業を進めるカラスとキナリに感心する。

「……二人とも、意外と真面目だな」

 四回目の音がした頃、相手方が電話口に出た。

『はいはいー。こちらシグレ交易ッス!』

 明るく快活な、若い男の声だ。
 愛嬌溢れる聞き慣れた声を耳にして、ムロビシも僅かながら余所(よそ)行きを装う。

「どうも。保護班のムロビシです」
『あー、どうもどうも! どうッスか、その後、彼女は変わらない感じで?』

 背もたれに体を預けて笑う。

「変わんない、変わんない。今も日課の徘徊に出掛けたばかりでね。おかげで羽を伸ばしてる子供が二人、目の前にいますよ」

 使い終えた書類を裏返し、画面の前に転がしたままだったペンを手にして、メモを取る体勢になる。
 話の内容に合わせて外の二人の様子をちらりと見てみると、カラスが気怠げにこちらを指差し、キナリへ何かを訴えていた。
 大方、途方もない愚痴を口静かな少女にぶつけているのだろう。損な役回りばかり担わされているキナリに同情する。

『本部様からご報告ちょうだいしてるッス。カラスくんとキナリちゃん……ボクと同年代ッスね!』

 受話器から絶えず紙の擦れる音が聞こえている。
 これもムロビシにとってはいつものことだ。
 電話口の男――シグレ交易という貿易商の窓口係を務めるこの男、いつも人手が足りないとぼやいては、散乱した机上をまさぐり、相手に見合った資料を探しながら会話を続ける。
 ある意味では器用な芸当とも言えよう。
 そして「整理整頓がなっていないと上司に怒られるッス……」なんて、最後に悲しげに呟く。
 大体この流れを経て通話を終えるのだが、反省して生活を改めるほどの暇もないらしい。
 今日も好調にペーパーノイズを発する男に、ムロビシは変わらず応対。

「もしそうだとしたら、その社交性を髄まで叩き込んでやってもらいたいくらい聞かん坊で……これからを想像するだけで頭が痛いの何の」
『それはそれは、今後が楽しみッスねー』

 ケラケラと笑う声は、今のこの国ではなかなか浮いた無邪気さである。

『えっとぉ、今日はご注文いただいていた商品の件でよろしいッスか?』
「ええ。急ぎの物じゃないけどね。いかんせん金額が大きいから大まかな納期だけでも聞いておきたくて。ほら、うち締日うるさいじゃない?」
『そッスね……弊社経理がケツを叩かれてるって噂は耳にするッス……』

 悲痛な心根がダダ漏れつつ、受話器越しに『納期、納期……』と鼻歌交じりの呟きがしばらく流れて十数秒、発見した旨の報告がハイテンションのうち成される。

『先々週のうちに金型が上がっていて、現在組立中ッス。検品後、ロットが揃い次第船便なもんで……二ヶ月後なら確実ッスかねぇ。まだ曖昧にしか読めないッスけど、間に合います?』
「あぁ、全然。備品として置いておこうと思っているだけなんで、大丈夫ですよ。思ったよりも早い」
『ネヴェリオ国内でやらせるよりは早いかもッスねー』

 教わった期日を殴り書く。
 ここでいつもの人手不足の話に突入するかと思いきや、男は何かを思い出したらしい声を上げる。

『そうだ、これと関連して一つ残念なお知らせが』

 言うと、男の明るかった声のトーンが落ち、いかにも秘密の話が始まる雰囲気を演出し始めた。
 一人で演劇でもしているようだなぁと、ムロビシは不意に笑ってしまいそうになるのを堪えて耳を傾ける。

『ロットラント市内の弊社の星霜匣(データ・プール)施設、近く廃止の方向で決定したッス』
「あーその件……。廻人(ねど)が集団で襲撃したとは聞いてますが」
『自分たちだけが搾取されていると不満を唱えていたみたいッス。気持ちも分かるッスけどねー。彼らにとってはただの風呂じゃないし――ともあれ、施設の建設自体、難色を示していた地元住民も多かったって話ッスよ』

 どこか物憂げにぼやく男に、ムロビシは「はて」と眉を顰める。

(ドル箱が被害を受けて大損害だろうに、まさか廻人の方に情けをかけるなんてな……)

 直後には何もなかったように会話を立て直すが、ムロビシにはどうも引っかかる反応であった。
 シグレ交易といえば、金儲けにはとことん積極的なことで名の知れている会社なだけに、なおさらである。

 懐疑的なムロビシを知る由もなく、男は続ける。

『一度騒動に発展してしまった以上、営業再開できないのは当然といえば当然ッスけど、推進派のみなさんにとっては、よりやりづらくなるかも知れないッス』
「暴動を起こした廻人たちは?」
『現場では取り押さえられただけで終わったみたいッスけど、その後は――お察しの通り』

 その言葉に、自然を溜息が漏れる。

「……これは、まだしばらく大混乱ですね。ただでさえ新人類計画は問題ばかりだってのに」
『雨が止めば話は違うんッスけどねぇ』

 ムロビシがぼんやりと憂いていたことを、相手方も同じように嘆く。

 ヨサメが突然起動した原因も、雨毒の根本的な仕組みも解明されぬまま、三年の月日が経ってしまった。
 この間、黒い雨と、それを未だ隠し通そうとするネヴェリオ国に対して抱く思いは、およそほとんどの人間に大きな差異はないのだろう。
 滅多に他人と交流する機会がなくなってしまった今、ムロビシは電話を介した些細な会話ですらそれを再確認するようになっていた。

「おっさん!」

 事の顛末を知らされ、次の言葉を選んでいるうち、玄関ドアの開く音と共に、生意気な少年の大声が飛んできた。

「草刈り、やってやったぞ! しかも全部、全部だかんな!」
「はいはい、おつかれさーん」

 恩着せがましい物言いだが、受話器に手を当て、軽くあしらうように返事をする。
 ドタドタとわざとらしい足音が近づいていくるのを聞きながら、電話相手の男に謝りを入れる。

「すんません、騒がしいのが帰って来ちゃったんで」
『了解ッス! また何かご用命がございましたら、いつでもお電話お待ちしておりまッス!』
「それでは、失礼します」

 受話器を置くのとほぼ同時、部屋の入り口をカラスが素通りしていく。
 後ろをついて来ていたキナリは場所をちゃんと覚えていたようで、ムロビシを見つけて立ち止まると、闇雲に廊下を進み続けていたカラスを呼び戻す。
 少しの時差を経て、二人が部屋の中へと戻ってくる。

「さっきの、独り言か?」

 話し声だけは耳に届いていたようで、カラスがムロビシに問う。

「違うよ。取引先の人と電話してたの」
「デンワ……」

 キナリがぼんやりと呟くのに対し、電話をコツコツとノックするように叩く。

「遠くの人と話せる機械だ。最近はインターネットもほとんど繋がらなくなってきてるし、今のところは最強の連絡手段だね。さて……」

 椅子から立ち上がり、体を伸ばす。
 どうにも机仕事は性に合わない。
 凝り始めていた肩を回しながら、入口付近の流し台へ。
 カラスとキナリが目覚めた際に食した昼食分と、さらにその前にムロビシが一人で使用した食器が重なっている。

「洗い物、片づけなきゃなぁ」

 家事は面倒だから後回しにしちゃうんだよね、と二人に言って、蛇口を捻る。
 キナリはこれから何が始まるのか気になる様子でいるが、カラスの方はまるでどうでもいいらしい。

「なぁ、おっさん」

 間髪入れず何かを言い出す素振りを見せたと同時、予想していなかった平手打ちがムロビシの背中を襲う。

「痛い!」
「頼みたいことがあんだけど」
「なんで殴る必要があんのよ」
「手の暇潰し」

 洗剤を含ませたスポンジをくしゅっと握り、泡を立たせてから食器を洗う。
 キナリは一連の動作を、目をぱちくりさせて凝視している。

「……どんな頼み事かな」
「ヨサメに連れてけ」
「はぁ。それは無理だ」

 ムロビシは一寸の迷いもなく断言する。
 見事な玉砕。
 カラスは一瞬呆気に取られるも、すぐにいきり立つ。

「何でだよ!」
「ヨサメは兵器だって説明をしただろう? 兵器っていう物は、民間人が気兼ねなく近寄れるものじゃないの。まぁ、ちょっとランドマークタワーっぽくはなっちゃってるけど」

 不具合が起こるとすぐに声を荒げるカラスの短気にもそろそろ慣れたのか、キナリは動揺もせず平淡に眺め、その裾を引っ張る。
 苛立ったまま振り向いてきたところへゆるりと首を横に振って見せると、カラスは不満を隠し切ることはできずも、言葉を飲み、気持ちを多少落ち着かせた。

「……ヨサメの近くに行くくらいはできるだろ」

 どうやら外にいるうち、彼らなりに会話を重ねてきたらしい。
 (なり)振り構わず殴りかかってくるかと思っていたが、カラスの手綱はキナリがきちんと握ったようだ。
 二人の物覚えの良さを目の当たりにして、カラスの譲歩に頷く。

「それはもちろん可能だ。限度はあるけどね。ロットラントへ行く用があれば、ヨサメには嫌でも近づかなきゃならない」
「それだ! そんときオレも連れていけ」
「連れて行くかどうかはカラスくんの普段の態度次第かな? そういう横柄な言葉遣いを顧みるのなら、考えてあげてもいいかもね」

 からかうように大笑するムロビシに、カラスはまんまと乗せられて歯を剥き、食い縛っている。
 その後もいくつか分かりやすい応酬を続けると、再び蛇口を捻り、洗い終えた食器を流水に晒す。
 時折勢いが弱まったりするものの、透明な水は音を立てて無限に溢れ出てくる。

「……きれい」

 少し遠目に眺めていたキナリが、じりじりとムロビシの近くに歩み寄る。

「……触ってみてもいい?」
「いいけど、ただの水道水だよ?」
「うん」

 許可を得、流れ落ちていく水に恐る恐る手を伸ばす。
 指先に水が触れると、かなりの冷たさを覚える。
 キナリの細い指に行く手を阻止された水は自在に形状を変え、音を立てて流し台の排水溝へと姿を消していく。
 何度か同じようにして戯れているキナリへ、ムロビシは説明してやる。

「雨毒でもなければ、星霜匣溶液でもない、何の変哲もない水だ」

 キナリがそれに顔を上げると悪戯も終わったため、最後の食器を洗い流すことが叶う。

「どう違う?」
「そうだな……。君たち廻人の視線で考えるなら、雨毒は有害、星霜匣は無害、普通の水は使い方次第ってところかな」

 水を止め、手を拭く。

「さて……取り敢えず夕飯までやることもないし、自由にしててもらって構わないよ。外に出るときだけは声をかけてちょうだい」

 ムロビシの言葉に、キナリは少し目を大きくする。
 待ってましたと言わんばかりである。

「字の練習」
「いいよぉ。仕事も片付いたし、いくらでも教えて――」

 聞くまでもなかった少女の願い事を快諾しようとしたムロビシの視界の外れに、とある物体が入り込んだ。
 それは建物の外に存在しており、ゆらゆらと動いて、建物との距離を縮めていた。

 もうそんな時間か、とムロビシは頭を掻き、キナリに一旦断りを入れる。

「ごめん、キナリちゃん。その前に一つだけ優先したいことができた」
「……」
「すぐだから、すぐに終わるから! ちょっとだけ待って!」

「男に二言はないから!」とだけ残すと、物に溢れた部屋を足早に出て行く。
 落ち着きのない性分のカラスにはこういった状況は愉快に感じるのか、ムロビシの後を追おうとキナリの横を通りがけ、一言見舞う。

「振り回されてやんの」
「……うるさい」

 むくれるキナリを愉快気に笑ったのはその一時だけで、廊下に身を乗り出し、玄関を開けたムロビシの方を向くと、カラスの表情は瞬時に引き攣ってしまった。

 何があったのか。
 キナリも遅れてカラスの背に辿り着いてから目線を揃えると――二人並んで同じように静止してしまうのであった。
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