2章 砕花(1)
 機械は息をしているかのように低音を吐き、星霜匣(データ・プール)の並ぶ部屋にそれを木霊させる。
 ごうん、ごうん、と耳に障る音が響く中、部屋の入り口付近から、紙の擦れる小さな音が時折鳴る。

 部屋の電気スイッチの下、地べたに座ったキナリが鉛筆を手に持ち、広げた紙に向かっていた。
 字を書く練習である。
 ムロビシから不要な書類を分けてもらっては、その書面に並ぶ一字一字を書き写していく。
 この作業は少女の日課になっていた。
 読み方を教わるにはムロビシの暇を充ててもらわなくてはならないが、字の形状と羅列の法則を覚えるのにはいい方法なのである。

 そうしてキナリが一心不乱に作業している姿を、カラスは星霜匣に浸かりながら眺めていた。
 決して機嫌が良いとは思えない、不貞腐れた顔を頬杖で支えている。
 キャレーでアカアリに刺された痕は綺麗に完治しているのだが、それ以上に顔も腕も傷跡だらけで、中には相当深く抉られたようなものも見受けられる。
 服に関しても補修を繰り返した形跡があちこちに見られる。

 カラスはしばらく沈黙していたが、キナリが構ってくることもない状況に飽きたのか、ぼそっとぼやく。

「――勝てない」
「あっ……」

 何の脈絡があるわけでもない、たった一言。
 数時間振りに聞いた少年の声に驚いたキナリは、その拍子に鉛筆の芯を折ってしまい、小さく悲鳴を上げる。
 浅く息を吐いて、苛立ちを露わにするカラスを向く。

「……おはよう。起きてるの気づかなかった」
「ん」
「勝てないって、アカアリとの組手のこと?」
「む……」

 むすっとしたまま頷く。

「……ここに来てまだ二週間だし、そんなすぐに勝つのは無理なんじゃないかな」

 どういった切り口で話すべきか思考を終えたキナリが慰めの言葉を投げるのだが、やはり少年に優しさは通じない。

「その二週間、ずっと負け続けてるこっちの身にもなってみろよ。昨日だってアカアリのやつに掠り傷すらつけられなかったんだぞ。キャレーのボロ家のときはあんな簡単に手が届いたのに……」
「アカアリ、夜は目が見えづらいんだって。ムロビシ話してた」
「おっさんはあのときオレが圧したのは偶然だったって言いたいんだろ。馬鹿にしやがって」

 キナリが勉学に励む間、カラスはアカアリとの組手をすればどうかとムロビシから勧められた。
 もちろん、アカアリに勝利することを目先の目標として掲げているカラスが断るわけもない。
 カラスの身を案じたムロビシが、アカアリから刃物を始めとするあらゆる得物を取り上げた素手での対戦を設けたのだが、それでも腕力・動体視力ともに遠く及ばないカラスは、ものの数分で動けなくなるほどに叩きのめされてしまう。
 酷いときにはそのまま気絶してしまうため、不安を胸に監視していたキナリがムロビシに助けを求めて中断させ、血みどろのカラスを星霜匣に放り込む……というのも、ある意味で日課になってしまっている。
 ちょうど昨晩がその終わり方であった。
 カラスの機嫌がすこぶる悪いのも、間違いなくそのせいである。

「……そっちの字の方は順調じゃんか」

 カラスは、キナリの前にある紙を遠目からじっと見る。

「見本の真似して書いてるだけだから」
「ムロビシから聞いたぞ。一〇文字は読めるようになったって。早くおっさんの無駄口やめさせられるくらいになってくれよ」
「努力はしてみるけど……」

 それこそ時間を経なければ難しい話だと、キナリは思うだけで飲み込んだ。

 二人がムロビシに拾われてから、二週間という時はめまぐるしく過ぎていった。
 初日こそ知識と実体験が釣り合わず、何をしてもチグハグな会話や行動を取っていたが、それも今はかなり落ち着いている。
 二人の脳には、生活に必要だと思われる衣食住に関する知識や運動、多少の言語が最初から備わっているとムロビシから説明を受けた。
 これは廻人(ねど)への教育期間を短縮するための共通項であるらしい。
 倫理的に許し難い行為のようだが、それもある程度黙認せざるを得ないほど、ネヴェリオという国は切羽詰まった状況とも言える。
 ……カラスとキナリには、倫理観といったものは理解できないでいるため、いまいち何が悪いのかは判別できていないのだが。

 濡れた前髪を掻き上げる動作を取ったカラスを見、キナリが提案する。

「前髪、邪魔そう。切ろうか。ハサミあるよ」
「いいよ、めんどくせ」

 即座に却下して、星霜匣の縁に手をかけて外へ出る。
 頭を振ったり、ジャンプしたりして水気を切る動作はさながら犬のようだ。
 仕上げに髪を絞りながら、部屋を出ようと歩き始める。

「朝飯食う」
「仕事部屋に作って置いてある」
「なんだよ、おっさんに作らされたのか」
「ううん。ムロビシも寝ちゃってたし、自分から。いつかここから出て行くなら、それくらいできなきゃと思って」
「あっそ……」

 キナリの向上心を意識すると、カラスは自分だけ二週間前の世界に取り残されている気分になる。

 アカアリとの模擬戦闘を経て、否が応にも筋肉は少しばかり厚くなった。
 会話についても、相手への正体不明の不満感は大きく減り、二週間前と比べればかなり円滑にコミュニケーションを取ることができる。
 その自覚は明確にあるのだが、よくよく考えてみると、キナリには相応のコミュニケーション能力が最初から備わっていたように思える。
 悔しいとか腹立たしいとか、そういう明解な感覚では片づけられない、もやもやとした気持ちが消えてくれない。

(オレとアカアリが別物だって思うみたいに、オレとキナリも別物……なのは分かってんだ)

 上手い表現が浮かんで来ない。

(自分と比べると、変に焦るんだよな)

 気を晴らすように、ばさばさと髪を払って広げる。

(――考えるのはオレの役割じゃないか)

 開けっ放しにされたドアをくぐって廊下へと出ると、膝を抱えて座り込むアカアリが二人を出迎えた。
 普段にも増して覇気の失せているところを見ると、どうやらここに座ったまま居眠りしていたようだ。

 カラスとキナリは睡眠というものがよく分かっていない。
 というのも、二人の場合、夜になると星霜匣の中へと入り、日中に濾過を終えた水溶液をグラス一杯飲み込むことで、ほぼ時差もなく睡眠導入の作用を享受する。
 目が覚める頃にはいつも水の中を浮かんでいて、呼吸ができないことを思い出して慌てふためく。
 この一連の流れが二人にとっての睡眠であり、眠気が襲ってきて逆らえなくなるという感覚は分からないのである。

 一方のアカアリは、怪我をしていないこともあってか、新人類であるにも関わらず星霜匣に入ることはせず、時折部屋の隅でこうして丸くなってうたた寝程度の睡眠をとることがある。
 二人が星霜匣に沈んでいるうち、彼女も同じようにしているのかも知れないが――食事している場面には、相変わらず一度も遭遇したことがない。
 こればかりは、二週間経った今でも本人の口から聞けるわけでもなく、ムロビシが把握していない部分も多々あるため、謎の多い人物であることに変わりないままだ。

「アカアリ。今日こそお前のその顔面ぶん殴ってやるからな」
「……う」

 返事とも言い難い呻き声で、カラスの宣戦布告に適当な応答をする。
 以前ならアカアリの姿を視界に捉えただけで怯えて身動きも鈍くなったものだが、彼女の扱いにもかなり慣れた。

 とにかくアカアリは敵意に対して容赦を知らない。
 相手が腕を振るえば、その腕を引き千切ることに全力を投じる。
“戦い”とはおよそ形容し難い野生を、組手ですらまざまざと発揮するのである。
 もっとも、言葉の通じない彼女からしてみれば、たとえカラスたちが組手と称していようとも、手を上げるのであれば暴力以外の何物でもないのだろう。
 アカアリのそういった単純な結論づけを目の当たりにしてきたカラスとキナリは、恐怖感とは別に、彼女の扱い方も少しずつ覚える機会を得てきた。
 体力面ではまだ勝ちようがないのだが、平常時のアカアリをコントロールすることは多少できるようになっている。
 見た目に攻撃性を見せたり極端に怖がったりすると、防衛反応、もしくは好奇心で手を出してくるらしく、唯一の解決しようのない問題点は、その際の力加減が全く利かないということくらいか。
 それさえ分かってしまえば、案外怖くないものである。
 なお、これについてもカラスよりキナリの方が飲み込みが早い。

「おはよう。今日も午後から雨だって」
「うー……」

 言葉を理解しているわけではなく、自分に向けて発された音に対して反応を見せているようだ。
 カラスは彼女のこの反応にあまり興味を持たないのだが、キナリは会話ができているような錯覚がなんだか楽しくて仕方なく、暇があるとアカアリに適当な言葉を投げて返答を遊んでいる。

 そんなキナリも今は挨拶だけに留めてカラスの後を追い、ムロビシのいる仕事部屋に入る。
 雑然とした部屋の中、壊れかけのソファで横になっていびきをかくムロビシを発見したカラスは、ズカズカと近寄って蹴りを見舞う。

「いつまで寝てんだよ」
「んぉ……――なんだ、ボコボコにされてた割に早起きだね……」

 それほど驚くわけでもなく、ムロビシは身を捩って目を覚ます。
 しかしこの男、言わなくてもいい一言を必ず放つなぁと、キナリは内心呆れてしまう。
 カラスもカラスで、その単調な挑発にまんまと乗っかっていくので、なおさら困ったものである。

「うっせー。髭剃れ、カス。鬱陶しい」
「機嫌は悪いね……」

 手荒い目覚ましを受けたムロビシは、身を伸ばし、関節を鳴らし、顎髭をじょりじょりと触ってから起き上がる。
 まだほとんど目が開いていないところに、キナリから食事の案内が入る。

「朝ご飯できてるよ」

 どうせインスタントだけど。
 キナリは自身の言葉に付け加える。

「あぁ、ありがとう。いただくよ」

 食事がインスタントなのはキナリが悪いわけではない。
 雨毒の影響で作物や家畜の生育が壊滅的に不安定なせいで安定供給がままならず、他国からの輸入に頼らざるをえないのである。
 膨大な食料を輸入・搬送するには人手や資金が足らず、軽量化を図るためにも乾燥させたり、顆粒状にさせたり、缶詰加工したりするほかない。
 昨今は大量の野菜を水耕栽培するための高気密工場の建造が各地で進められ、多少はまともになってきたものの、それらが一般市民の手に渡るにはもう数年かかるところだろう。
 その数年のうちに雨毒がどうにかできればいいんだが――ムロビシが三日に一度は口にする悲嘆である。

「朝飯の前に、今日の予定だけ伝えておきたいんだけどいいかな」
「改まってなんだよ」

 寝起きの一服、タバコをくわえて火をつける。

「いやね、みんなでロットラントへ行こうと思って」

 ロットラント市街。
 カラスが妙に羨望を送る巨大兵器ヨサメが悠然と聳える、ネヴェリオ連併国随一の繁華街である。
 ほとんどの流通はロットラントを経由していくため、ムロビシが買い出しのために車を走らせ向かうのは大体そこだ。
 いつかは連れて行ってやると約束してもらっていたが、まさかこんなに早くその機会が訪れるとは思っても見なかったカラスは、急に目を輝かせてムロビシに確認を迫った。
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