2章 砕花(10)
「――ケエの言っていること、あんまり分からない……かも」

 ケエの容態の変化から危機を悟り、半歩前のめりながら声を上げる。

 ケエを蝕む一連の現象を目の当たりにしてもなお、キナリはどうしてもそれが人体に起こり得るものとして認識できずにいた。
 ケエの言う死の形≠ニ、キナリの知る死の形≠ェ全くもって異なるためである。

 キナリが唯一目にしたことのある死の形≠ニいえば、カラスが手を掛けた老人――ふたりの親に当たる、年老いた男の最期。
 首を絞められ、呼吸がままならず苦しむ挙動は次第に鈍化し、やがて一切の活動を諦める以外、外見に変化はなかった。
 当時を思い返して記憶を遡ってみるのだが、目で見たことのある死、あるいは初めから備わった死の言語的な定義のいずれもが既知のものに違いない。

 しかし、ケエから聞かされた話ではどうか。
 体が紙のように剥がれ落ち、散って消えていく――?
 およそ嘘のようなことだが、ケエの現状を見る限りでは、彼女の言い分に矛盾は見られず、また、思考を巡らせたところで、彼女が嘘をつく利点も思いつきはしない。
 そうだとすれば、キナリよりもよほど自身に何が起こるのかを予見しているのであろうケエが、わざわざ他者の目を避け、時間をかけ、有益な情報を与えてくれているのだと考えてもいいのではないか?
 不慣れな親切心が、キナリの疑念の解消を殊更に阻み続ける。

「……それって、星霜匣があっても治らないの?」

 強いて訊いておくべきことだろうと思った。
 星霜匣を使わずして発現した奇病なのだとすれば、治癒を助長する星霜匣を再度使用すればいいはず。

 キナリの目に隠しきれない焦燥が浮かぶ。
 ケエの証言の通りの変化が、自身にも起こり得るものであるからだ。
 せめて「詳しいことは分からない」と濁して欲しいと願う少女の思いは、ケエのはっきりとした頷きにより、まるで聞き入れられることなく終わりを迎えた。

「白化が始まってからでは、もう遅いそうです。人によって差はありますけれども、おおよそ三日の間、星霜匣から遠ざかった廻人は等しく死を迎えると……。何十人といた仲間が一斉に目の前からいなくなってしまったのですもの。ソウさんのお話、嘘ではないでしょう。もちろん、フウメイさんも嘘を言ってはおりませんけれど――」

 呼吸も浅くそう語るケエの表情に、初めて(かげ)りが浮かんだ気がして、キナリの中の不鮮明だった感覚が、ひとつ、閃光のように煌めき、弾けた。

 見聞きした無数の情報に対してキナリが不信感を抱くように、ケエもまた、同じく誰かを疑うことがあるようなのだ。
 いつも傍にいるカラスは疑いを深化させることをしない質だし、ムロビシは一切の詮索を許してはくれず、アカアリに至っては思慮を心得ていないという。
 これまで余所の環境を知る由もなく生活してきたため、自らの置かれている環境に少しの違和感を覚えることもなかったのだが、それが今この瞬間、何とも代替できない異質へと形を変えたように思える。

 善し悪しの話ではない、果てなく感覚的な問題。
 多量の知識を持ち合わせていながら、活用方法を知らないという廻人の性質への理解……とでもいうべきだろうか。
 決して長い時間ではなかったが、ケエとの遣り取りを経ることで、対話≠ニ呼ばれるコミュニケーション手段の本質的な部分を経験した気がしたのだ。
 そして同時に、この感覚の起因が、ケエの目的であることも悟ってしまう。

 キナリの中で強固に封されていた激情が、滾々と湧き出てくる。
 言うなれば、カラスを振り回して止まないモノが、これか。
 放散できないで沈澱する不安が喉の渇きを誘発し、指先から温もりを奪い、視点の震えにまで現れる。
 あと少し、この昂揚が強まれば、到底自我など制することはできない。

 しかし、キナリのその恐怖に歩調を合わせられるほど、ケエもゆっくりはしていられないよう。
 分かっているからこそ、こうして表には出せないような毒気を堪えているのだが、ケエとしても、終末を急ぎ、言葉を残すことは止められない。

 ――ケエは今、ここで、廻人として死ぬ。
 キナリという、見ず知らずの廻人の少女の目の前で死ぬことを選んだのである。
 初めて顔を合わせてから、まだ数十分といったところだが、その間に紡がれたケエの言葉の端々に彼女の覚悟は表れていた。
 最初は何を言っているのかと甚だ疑わしかったが、結論が明確になってしまえば簡単なことだ。

「ソウさんが私の元を訪れてきたのは、昨晩のことです。もうほとんどの子たちは跡形もなく逝ってしまっていましたが、彼はどうやらこうなることを予知していたようで、姿を現すなり矢継ぎ早に、事の真相と言いますか、彼の持ち得る情報を私に教えてくださいましたの。彼が保守派であることや、違う境遇に置かれる廻人の方々の生活ぶり。先ほど私からお話ししたような、星霜匣に関する知識。そして最後に、私の生きられる期限についても」

 当時のことでも思い出しているのだろうか。
 まだ一日も経っていない出来事を、まるで昔話のように語る。
 皺に隠れた老婆の目口から詳細な感情を読み取るのは難しい。

「私たち以外の廻人の方々に、どうしても死という様式についてお伝えしたかったのです。知りたくもないお節介でしょう?」

 知りたいか、知りたくないか。
 どちらだろうか。
 今すぐに判断はつかなかったが、徐々に血色を失いゆくケエを眼前に、首を横に振ることはできなかった。

「けれども私たちの人生は、あまりにも他人の介入に依存しています。得られる情報や行動も制限され、ついには何も知らぬまま死した廻人も、きっとたくさんいたことでしょう。空へ消えた仲間も、私も、きっとその一人」
「ケエも死ぬってこと?」
「ええ。きっと、間もなく」
「…………」
「不自由の多い人生を歩むことを強いられる場面も多いでしょうけれど、自分ではない誰かの言葉を受け入れることで、右か左か、あるいはもう少しばかり違う道を選択する機会が得られるように思えます。どうか、キナリさんにはそうあって欲しいと願う、文字通りの老婆心です」
「……ケエは難しい言葉、たくさん知ってる」
「キナリさんとそう変わらないほど、産声を上げてからの日は浅いのですよ。誰に教わったわけでもないのに、自然とこうして話すのだから、私たちを生んだ旧人類の方々というのは大層に賢いのね」

 ケエは浅い呼吸を挟み、視線をキナリからやや離す。
 遠くに赤と黒、ふたつの人影が見えたためだ。
 似たような背丈の、キナリやケエよりも遙かに大きな、おとな。

「アカアリ……」

 だらりと垂らした細い腕と、白い髪。
 透き通るような青い瞳には一切の生気はなく、じっとこちらを見つめている。
 黒い服は所々が破れ、普段よりも露出の多い肌のほとんどは、誰かしらの血に染まり、真っ赤。
 この国において、数日に一度あの狂気的な風貌を取る人物と言えば、アカアリ以外にそういるものではないだろう。

「……お連れの方、戻ってこられたのですね」

 良かった――安堵したように、ケエが呟く。
 挙動も落ち着いているようだし、確かに良かったと言えばその通りなのだが、よく全身血濡れの人間を見て取り乱さずにいられるな、と、キナリは思う。

 それにしても、アカアリの隣に立つ人物は誰なのか?
 髪も服も黒尽くめの、男と思しき人物に警戒しながら、脇目にケエの様子を振り返ると――最も白化の進行していたケエの右腕が、半ばからすっぽりと抜けたかのように地面へと落ちていた。
 およそ人体とは思えぬほど無造作で、出血もなければ、音も立てずに。

 俄には信じられない光景を目の当たりにしたキナリは、状況整理のために一瞬の間を費やし、とにかく傍に寄ろうと踏み込んだのだが、そのほんの些細な時間のうち、ケエから分断された腕は紙吹雪のようにかさかさと小さな音を立てながら散り散りになって崩れ、僅かに吹く風に乗って宙を舞う。
 真っ白なそれは、黒い雲へ吸い込まれるように空を目指す。
 その様子を目で追い、呆気に取られるキナリをよそに、ケエの体は堰を切ったかのよう、同様の現象が全身へと伝播し、乖離を急ぎ始めた。

「ケエ……!」
「……イヤね、私では醜いかしら――」

 この期に及んでまで、ケエはほぅと息を漏らして笑う。
 くしゃりと形を変えてしまった紙袋をその場に落として駆け寄るキナリへの手向けのようであった。
 ケエの前に辿り着くと、膝を擦り剥くことも厭わず座り込むのだが、そのときにはすでに会話もままならぬほど体を喪失し、いくつか瞬きを経る頃には、つい先程まで言葉を交わしていた人間は、ここには最初からいなかったかのように、廃墟に囲まれた袋小路の隅に、真白の物体が大量に残るだけであった。

「お前がキナリか」

 言葉もなく、風に震えるケエの痕跡を見下ろすキナリの背に、気怠げな低声が当たる。
 アカアリと共にいた男だろう。視線を向ける気力もなく、身動きひとつ取らずに、キナリは問う。

「あなたが、ソウって人?」
「それは俺の知り合いの名前だ」
「……」
「アカアリは届けてやったからな。ケエとの別れが済んだら、こいつの鼻を頼りに車まで戻れ。ムロビシに詳細を話す必要はない。問われたとしても、カラスはともかく、お前なら(はぐ)らかすくらいはできるだろう。騙そうとまでしないでいい。どうせ無理だからな。とはいえ、お前が従順でないと知れば、あのおっさんも隙くらい見せるはずだ」

 全てを知った風に、ただ淡々と、男は注意を並べ、すぐさま踵を返したようだった。
 ほとんどの音が死んだ路地裏に、男の足音だけが耳を刺してくる。

「――ソウじゃないなら、あなたは誰」

 男の方を振り返ろうとはしない。
 雨を感じさせる風が一陣吹き込んで、ケエを低い空へと攫いゆく様を、にべもなく眺望徹するのを諦めきれないからだ。

「ソウに会って聞け。まじで雨まで時間ないぞ。まずはおうちに帰ってから、どうしたいかよく考えな」

 男は結局名乗ろうとせず、恐らくはアカアリへ「またな」とだけ言い残して、質の悪い砂利道を返って行った。
 この僅か半日にも満たないうちに起こった数々の出来事が、キナリの送る日々をしばらく占領するのは忌避ならぬこととなる。

 ――ケエの純白の遺体が宙を舞う情景は、言に偽りなく、痛く美しいものであった。
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