2章 砕花(11)
「…………」

 少年は見蕩れていた。
 ロットラントの街の中央、真っ黒な空を刺すように聳え、もうすぐ襲い来る『雨』という日常から逃げ惑う人々を見下ろす純白の巨塔に。
 鮮やかな赤と青の長旗を誇らしげに纏う姿は荘厳で、まさかその体内から恐ろしい毒を吐く兵器とは思えぬ神々しさすら感じられる。
 鼻孔にへばりつく湿気は段々と鬱陶しさを増しているのだが、かれこれ数十分の間、カラスはその場から離れられずにいた。

「まぁだ眺めてんの?」

 通りすがりの男性と言葉を交わしていたムロビシが、会話を終えて振り向き、うっすらと口端を吊り上げて呆れ半分に言う。

 キナリたちと別行動を取り、買い物を終えたカラスとムロビシは、大荷物を車に積み込んでから老婆を探すことにした――のだが、積み込みの時点からカラスはずっとこの調子で手伝うことすらせずにいた。

 ヨサメと呼ばれる巨大兵器。
 人々の生活を根底から破壊した、雨毒の生みの親。
 すなわちカラスやキナリたち廻人の起源でもある。

 このヨサメは、自分たちの『親』でもあるのだろうか?
 そんな考えはちょっとした気の迷いでしかなく、カラスがヨサメに強い興味を持つ理由としては、ほんの一握りしか占めていなかった。

 とはいえ、そのほか大部分の好奇心に理由はない。
 得体の知れない建造物が、何となく、やたらと気になるだけ。
 キナリが暇を持て余すと本を読んだり、字を書いたり、アカアリを眺めたりするのと、きっと同じなのだろうと、カラスは思う。

 かったるそうにしながらムロビシを振り返り、頭の後ろで腕を組む。

「キナリとアカアリは帰ってきたのかよ」
「いんや。ついでにケエおばあちゃんの行方も知れず、だね。あぁ、さっきの騒ぎはやっぱりアカアリの働きで間違いないとさ」
「なんで分かんの」

 腰を捻ったりしながら問う。

「この街には保守派()が仰山いるけど、おいちゃんの仲間も同じくたくさん潜んでるわけよ。さっき喋ってた兄ちゃんがソレね」
「あー……。オレらに寄ってくるなんて珍しいと思ったけど、どーりで」

 カラスは、やはり興味薄そうに相槌を打つ。
 満足行くまでヨサメを眺めることも叶い、あとは雨毒が落ちてくる前に車で帰るだけ。
 そのためには――約束の時間になっても戻ってこないあの二人をどうするか決めなくてはならないだろう。

「これから探すのか?」
「ケエについては保留……だな。状況が状況だ。本部も諦めるだろ」
「意外と適当だな」
「……諦めざるを得ないってのが正しいか」

 ムロビシがまた、随分と思わせぶりな言い回しをする。
 彼のそういった言葉はカラスにはよく通じないのだが、なんとなく妙であることは察する。
 怪訝に顔をしかめて見せるカラスへ、ムロビシは口元をにんまりと、眉尻を僅かに下げ、一等珍奇な面持ちで黒々の曇天を仰いで言う。

「――見てみな。なかなかお目にかかれないモンだ」

 指を差す代わりに、顎先をクイとしゃくって、遙か上空を示した。
 カラスの視線がその動きを倣って黒天を仰ぎ見ると、不気味な雨毒雲の懐を、小さな白い物体がちらちらと風に乗って漂っていた。
 最初こそ数えられる程度だったのだが、正体も知れず呆けて眺めているうち、純白の欠片たちは夥しい量へと増え、目を凝らすことなく視認できるようになった。

「なんだ、あれ……?」

 ヨサメと同じような煌びやかさを街に飾る空の漂流物に、カラスの口は勝手に疑問を放つ。
 街の人々もざわめき……感嘆と表すのが適当だろうか、比較的明るい声色を上げている。

 ムロビシは、尻のポケットから取り出した掌大の機器を空に向けて掲げると、側面についたボタンを押し込んだ。
 軽快な音を一度だけ立てたのを確認すると、すぐに機器を構えた腕を下ろす。

流光(ルコウ)≠セね。どういう原理か――そこは知らないけど、庶民の間ではそう呼ばれてる。どんより暗いこの国においては、吉兆……あぁ、つまり……いいことが起こる前触れとして崇められてる現象さ」
「へえ」
「綺麗なモンだろ?」

 そうカラスに問いかけながら、しかしムロビシの顔向きは、機敏に、僅かに少年とは真逆の方へと傾く。
 流光の悠然とした様子を観察していたカラスだったが、普段は見慣れない挙動が脇目に入り、何事かと注意を向けるのだが、不敵な笑みを変えることも、話の腰を折ることもなく、ムロビシは整然と言葉を繋ぐ。

「――俺はあんまり好きじゃないんだけどな」
「あ?」
「流光のことだよ。綺麗なモノには裏があるのが、昔からの決まりだもんさ」

 カラスの姿を振り返り、ムロビシはそう嗜む。

 いつものことだが、ムロビシの相手は基本的に面倒くさい。
 何か考えがあってなのか、はたまた単にただの癖なのか。
 カラスにとってみれば、彼の言動はまどろっこしくて黙って聞いていられないのだ。
 キナリも同様の苦手意識を持っていると話していたが、それでも彼の生活に依存するほか、今の時間を安易に生き抜く方法というのはないらしいのだから、効率良くあしらう技術が必要だろうという結論に至ったのが数日前。
 当然、話を聞かないで放っておくことも実践してみたのだが、そうすると余計に構ってくるためすぐに取り止めた。
 それ以降、ムロビシとの話の間が空いたら適当な相槌を打ち、要所の言葉だけを拾っておけば何とかなるところに落ち着いた。

 それにしても、先ほどからムロビシの一挙一動が見慣れない質になっているような気がする。
 普段の鼻につくような余裕がないというか、頻りに周囲の様子を窺っているというか。
 何かを警戒でもしているのだろうか?

(オレに厄介なことさえ起こらなきゃどうでもいい)

 キナリとアカアリが約束の時間を目前にしても姿を現さない今の状況だけでも厄介事に振り回されている気分なのだから、これ以上の不測の事態だけは勘弁願いたいところだ。

(ま、オレなんもしてねーんだけど)

 ふあぁと、あくびを掻く。
 体を伸ばし、大きく息を吸う。

 楽しみにして訪れた街という集合体だったが、快く思われていないということで大した楽しみ方もできず期待外れ。
 旨そうな食べ物なども売られていたが、金がないからとほとんど却下されてしまった。そうなると、やたらじろじろと自分を見てくる人間が多いだけで、決して心地のいい場所ではない。
 もうしばらくは来ないでいいな……などと呆けていると、突如、ヨサメの方角から大きな音が鳴り響いた。
 音の正体はカラスも知っている。
 毎日のように聞いてきた、白昼を告げる鐘の音。
 昨日までは自宅――ムロビシの家で耳にしているため、これほど腹に響くような音量で聴くのは初めてで、不快どころではない爆音を遮るために耳を塞いで、ついでに力んだことで目も瞑ってその場に座り込む。

「来たみたいだ!」

 片やムロビシは驚く様子もなく、ごつごつとした指で大通りを指さして声を張り上げた。
 この騒音の中、平然としているムロビシを見、カラスは「耳悪いんじゃないか?」と内心悪態をつくが、うっすらと左目だけを開けて指示された先を一瞥すると、人混みがじわじわと左右に裂け、一筋の通り道を開けていくのが見える。
 音こそ届いてはこないが、慌てふためいて走り去る者も確認できるだけで、まだ目視こそできないが、直にあの奥から身内の亡霊≠ェ出てくるのは間違いないだろう。

「行くよ」

 鐘の鳴り終わる頃。
 声量を戻したムロビシの号令に合わせて立ち上がり、人の寄りつかないヨサメの根元を離れる。

 人の流れに逆らって歩みを進めていく。
 行き交う人々のうち、どれほどの人数がカラスのことを新人類であると認識しているのかを知る余地はないが、忌避の目はいくら疎くとも感じるし、およそ身にもならないと思われる潜め声たちが耳に入ってくるのも邪魔くさい。

『推進派の出入り、まだ規制されないのね』
『そういえば、施設襲撃の件、あれから音沙汰がないですね』
「カラス」
『見せしめにあの場で全部殺しておけばいいものを』
「おい、カラス」

 揃いも揃ってごみごみと、喧しくて仕方がない。
 ただの雑音として無視しようとしていた街の音の中、しかし、ふと誰かに名を呼ばれたことに気がつく。
 聞き覚えのない男の声だった。
 反応するよりも先に後ろから右肩を軽く叩かれ、反射的に振り払おうとするも空振り。
 勢いのままに体の向きが変わる。

 二歩ほど離れた場所にいたのは、全身黒尽くめの男。
 胸元に肋骨の浮いた、アカアリよりも少しばかり背の高い、不気味な男。
 カラスが「誰だ」と問いかける間も与えず、男は立ち去るように踵を返しながら、一言だけ言い残す。

「キナリからあまり目を離すなよ」

 異様に長い前髪から顔つきを覗くことも叶わないまま、人混みに紛れて消えゆく男を、カラスは唖然として眺めることしかできなかった。
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