2章 砕花(12)
 あれは、何者なのか。
 カラスとキナリの名を知る、怪しげな外見の人物。
 意味深な物言いも含めて気味の悪い存在だ。

 ムロビシなら何か知っているかも知れないが、これまでの経緯を鑑みるに、仮に思い当たる節があったとしても素直に語るとは到底思えない。
 不可解との遭遇に納得いかぬまま睨みを効かしているうち、ふと、雨も降るというのに揃いも揃って立ち止まってカラスたちの行動を監視する群衆の中、愛嬌の満ちた笑みを浮かべる女がいることに気がつく。
 目つきそのままに視線を合わせてみるものの、女は怯むわけでも、何言かを発するわけでもない。
 カラスたちへ嫌悪感を露わにする者がほとんどを占めるこの空間において女はあまりにも異質で、例の男と同様、明らかな不気味さを漂わせている。

「カラスくん、ちょっと手伝って欲しいんだけど!」

 先を歩いて行ったムロビシの呼び声が、少し離れているであろう場所で飛んだ。
 女への違和感を置き去りにするには苦しいタイミングだが、僅かとはいえ多方面で切羽詰まった現状を心得ているだけに、場を離れることを決める。
 カラスが舌を打って背を向ける寸前、女が、飛び切り明るい笑顔でひらりと手を振るのが見えた。

 キナリとアカアリの迷子に始まり、ムロビシの妙な所作、空を舞う流光、得体の知れぬ男の言葉、物言わぬ笑顔の女……。
 不慮の出来事というのは、こうも立て続けに起こるのが常なのだろうか?

 長く思考することを拒まれているのだろうか、十数歩も歩けば、ムロビシの元へと辿り着いた。
 群衆への警戒心を表に滲ませるムロビシの隣には、頭から血を被ったように真っ赤になったアカアリが、衣服を大きく損傷させ、しかし表情だけはいつもと変わらぬ平坦を保ったまま立っていた。
 怪我をしているのか、片足を庇うような立ち姿である。
 頭が割れて血を流している……というわけではないらしく、全身に付着している大量の血痕の大部分は他人のもののようだ。
 一方、ボロボロの紙袋を携えたキナリが佇むのは、その二人から少しだけ離れた位置。
 アカアリと違い、キナリの見た目に大きな変化はない。
 浮かない表情ではあるが、特別心配するようなことはないと見える。

 たかだか数時間振りの再会に過ぎないのだが、アカアリに起こった外見の変化からだけでも、物事に無頓着なカラスですら、ムロビシが事前に耳にしていた騒動の大きさを察するに余る。

「なんだよ。アカアリ、ボッコボコじゃん」
「うゥ……」
「唸るなよ、こえーな」
「どうやら脚も腕も折れてるね」

 アカアリの傷害の程度をざっと確認して、ムロビシが言う。

「誰かにやられたのかよ」
「さてね……壁ぶん殴って自滅、なんてのもよくやるから、現場見ない限りは分からん。まぁ、相手は始末したみたいだし、真相はどうでもいいんじゃない?」

 こういった事態に慣れているムロビシは事もなさげだ。

 アカアリは痛みに酷く鈍感で、なおかつ負傷した際の治癒もムロビシたち旧人類とは比にならないほど迅速なのは、強靱な再生能力を持つ新人類の特徴そのものとして周知の事実。
 だがアカアリの場合、カラスやキナリよりも若干ではあるが治りが早かったりする。
 骨が折れたところで十日とせずして元通りではあるだろうが、普段アカアリによって骨折を多々余儀なくされているカラスは、当時の息を忘れるほどの痛哭を思い出して顔をしかめる。

「歩けなくはないみたいだけど、抱えた方が早いかな。……自警も人数揃えて取っ捕まえに来る頃だろうし」
「抱える? 持ち上げた瞬間、何されるか分かんねーぞ」
「大丈夫。縛るから」

 穏やかではない一言を平然と放ってから、ムロビシは自身のベルトを外して一旦カラスへ預けると、アカアリの両腕を手早く後ろに回し、背後へと移動する。
 当然アカアリは意味不明な声を上げながら暴れ、その様相に怯えた野次馬たちが悲鳴を上げたりするのだが、ムロビシの太い両腕はそれをがっちりと押さえたまま動かない。

「ほい。手首の辺り縛って」
「な、なんかやばい方に曲がってるぞ、アカアリの腕……」
「あぁ、骨折れてるもの。いいから早く、おいちゃんめっちゃ脛蹴られてるから。ヒールで超痛いから」

 カラスは急かされるまま、バックルにベルトを通し、きつめに両腕を縛る。
 それを確認した瞬間、ムロビシがアカアリの胴回りを抱え込み、一気に肩まで持ち上げた。
 アカアリは力量の割に細身だが、それにしてもあまりにも簡単に宙に浮いてしまったのを見て、カラスの喉から上擦った驚嘆が漏れる。
 例の図太い片腕でアカアリの足を、もう片方で負傷していない腕を締めるように固定すれば、もはや動くのは折れた腕と首から上くらいなものだ。

 ムロビシの膂力(りょりょく)に単純に舌を巻いたところもあるが、実行にあたる手際の良さに対しても、カラスはある意味で戦慄してしまう。
 派手な行動を取るアカアリにばかり目が行っていたが、本当に勝ち目がない境遇を想定するとしたら、この男を相手取ったときかも知れない。
 ゾッとせず、ムロビシが好戦的でないことに安堵を覚えるカラスであった。

「さ。車に戻ろう。早く、早く。雨降る」
「分かったって、うるせーな」
「それでは皆様、お邪魔いたしました」

 ムロビシは意地の悪そうな破顔で周囲に集った群衆を一瞥、淡々としつつも揚言すると、それまで様子を窺っていた人々が一斉に、顔色を変え、堰を切ったように怒号を巻き起こし、言語として成り立っていない暴力的な音を上げ始めた。
 瞬く間の伝染を経た怒声は、雨を防ぐためのアーケードに囲われた街を支配するように轟く。

 あまりに急な暴動にカラスは目を丸めたが、さらに影響を受けたのは、アカアリを巡る遣り取りの間も傍でじっとしていたキナリだった。
 ムロビシの一言を皮切りに襲い来る罵詈雑言に圧倒されたのか、幾度か怪しい挙動で四囲に一目し、車のある広場とは違う方向へと転換した後、突然走り出た。
 放心していたカラスもキナリの突飛な行動にすぐさま正気に戻り、咄嗟に彼女の長い髪へ手を伸ばし、力一杯に掴む。
 引っ張られた痛みもあってか、キナリの足はすぐに止まった。

「どこ行くんだ馬鹿ッ!」

 慌ててキナリの肩を乱暴に捕らえて声を荒げる。
 その肩は驚くほど華奢でいて、異様に間隔の狭い速度で上下運動を繰り返していた。

「……おい」

 ――様子がおかしい。
 そう直感した途端、次の言葉が思うように出て来こなくなってしまう。

 妙な沈黙が降りる。
 つい先ほどまで鼓膜を劈くような喧噪に包まれていたはずが、カラスにはその一切が、束の間に何も聞こえなくなっていた。
 やがてゆっくりと振り向いたキナリの表情に、初めて、何とも言い得ぬ緊張や蕭然(しょうぜん)といったものが混濁して流れ込んでくるような感覚に直面する。

 いつにも増して真っ白な肌は、目元だけが窪んで赤黒いとも見て取れる色味を帯びており、呼吸は浅く速く、視点は揺れ、双眸には水のような液体が絶えず浮かんでいる。

 泣いている、ようだった。

「お、おい……」

 ひとつ前と全く同じ呼び掛けだけがカラスの口から零れる。
 そんな顔で見られては思いつかないのだ、何もかもが。

「過呼吸っぽいね」

 ムロビシが隣まで来て、覗き込む。

「ちょうどいい。キナリちゃんが持ってる紙袋、口に当ててやりながらおいで。余程でなければすぐに落ち着くさ」

 どこかおかしそうに鼻を鳴らし、ムロビシが先行して歩いていく。

「いや……しかし、市民の皆々様は存外俺たちに不満が溜まっているらしい。今にでも高ぶって飛びかかってくるかも知れないし、嫌われ者は早々に尻尾巻いて逃げましょ」

 その肩でアカアリが所構わず噛みつくのだが、ムロビシの背中や脇腹に歯が掛かったと思うと、力一杯に頭を殴られ阻止される一連の流れを繰り返し、なかなか振り解けずにいた。
 日頃アカアリに惨敗を続けるカラスには、俄にはその光景が現実とは捉えられず、間の抜けた顔で見入ってしまい――キナリの不調を思い出して注意を改める。
 乱れた呼吸に、苦しげな声が微かに乗る。
 消耗しているようではあるが、彼女はすでにムロビシの言った通り、抱えていた小さな紙袋をがさごそと広げ始めていた。

 挙動は非常に鈍い。
 これ以上ムロビシとの距離が空くと、それこそ周囲の人間が厄介な行動に出る隙を与えてしまうのではないか。
 カラスの頭にもそんな危惧はあるのだが、今のキナリの容体を見てしまっては、何かを手伝ってやるべきなのかの判断も働かない。

 下手に手を貸さない方がいいのか?
 それともいっそ、ムロビシがアカアリにしていたように、キナリのことを抱えてしまえばいいのだろうか?
 この数ヶ月で少しは力もついたのを考えれば不可能ではないはずだが、体の状態が良くないときに迂闊に揺さぶられて悪化するのは身を持って経験しているだけに即決に至らない。

 キナリから目を離すなという、得体の知れない男の言い放った先の言葉が甦る。

 気づけば舞い戻っていた怒号の中、カラスは過去にない焦燥に駆られながら、また、過去にない速度で思考していた。

 ところがキナリは、そんなカラスの裾をゆっくりと自分へと引き寄せると、幕のようになったその上で、口の開いた紙袋を真っ逆様にひっくり返した。
 複数の物品が袋から滑り落ち、カラスの服の介助を受けて姿を露わにする。

 二色の紐と、キラキラした飾り物、それと、赤い棒状の小物。

「赤いのが、カラスの」

 息苦しそうにしてそれだけ呟くと、カラスの裾から手を離す。
 小物が落ちないよう慌てるカラスのことは確認もせず、空っぽになった紙袋を口元へと運んだ。

 カラスの迷いは、この瞬間、唐突に終結を遂げる。

「――車まで連れてってやるよ。背負うくらいならできる」

 吹っ切れた理由こそ分からないが、とにかく本人に問いかければいいだろうと、そう思えた。

「…………」
「イヤなら自分で歩け」
「…………」
「どっちにすんだよ」
「……うん」

 しばらく返答しないでいたキナリだったが、ひとつ大きく呼吸を置いてから、カラスの胸元へ額を預けると、脈絡を無視した答えを口にする。

「――つかれた」

 たった一言を最後に、未だ落ち着かない息を再度乱して、キナリは咽んだ。

 少年少女と付かず離れずを保って歩くムロビシは、群集のさらに遠く、何人も存在しない街角一点に目を留めて、ぼやいていた。

「わざわざ俺に見えるところに出てくるとは。どうしてお前が、今日、此処にいるんだろうなぁ……。イメの長男坊――」

 くたびれた顔の嘲笑は、相も変わらずに。

「ロウ・ノルエフ君よ」
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