2章 砕花(13)
 街へ来た頃よりも幾分暗く見える駐車広場へと戻ってきた。
 そう感じるのは、黒い雲が迫ってきているせいなのか、心情の変化のせいなのか。
 キナリはその判断もつかず、深く息を吸い込み、肩を落とす。

 ムロビシは手負いのアカアリを担ぎ上げたまま、カラスとキナリを先導して車まで辿り着くと、片手で器用に解錠し、横開きのトランクドアを勢いよく開ける。
 随分大きく開けたな、とカラスが思ったときには、つい数秒前まで肩に担がれていたアカアリが車内へと放り投げ込まれていた。
 粗雑。
 その一言に尽きる所作を終えると、すぐにドアを締め切る。

「女性をこんな乱暴に扱いたくはないんだけどね」

 少年少女を振り返って、ムロビシは言う。
 おどけて放ったのかも分かりづらい。
 余程急いているらしく、ぽかんとするカラスとキナリにも早く車へ乗るよう車内を指し示すと、運転席へと回り込んだ。

 キナリは、ふと、今歩いてきたばかりの道を振り返る。
 点々と、質の悪い砂利に残る微量の血液。
 いずれもアカアリから滴り落ちた、誰のものかも分からない血だ。

『――キナリさんは、星霜匣について保護班の方からどの程度のことを教わっているのかしら?』

 今からロットラントを離れ、唯一慣れ親しんだ家へと戻る。
 怒濤の勢いで巻き起こった出来事が、反芻するようにキナリの脳裏に甦る。

『……消えていったのは若い者からでした』

 ケエの優しい声は、何よりも鮮烈な印象として残った。

『これが、廻人の死の形だそうです』

 彼女が死の直前まで話していた、ソウという見知らぬ人間から与えられたという廻人に関する知識。
 果たしてどこまで信じていいものなのか。

『得られる情報や行動も制限され、ついには何も知らぬまま死した廻人も、きっとたくさんいたことでしょう』

 彼女も、そのうちの一人だったのだという。

『まずはおうちに帰ってから、どうしたいかよく考えな』

 ケエの死と同じ時、アカアリと共に現れた、ソウの知り合いだという男。
 助言とも受け取れる言葉を一方的に吐き捨て、砂にまみれた街へと姿を眩ませた。

 自分は果たして、どうしたいのか。
 この場で決断する気は到底起きない。
 男の言うとおり、このまとまらない思考を家に持ち帰ることから始めるしかないのかも知れないと、キナリは思う。

 突如――トランクドアから猛烈な打撃音が数回鳴る。
 車内で暴れたアカアリが内側から蹴りつけているらしい。

「キナリちゃん。早く乗ってくれないかな」

 運転席から顔を出して、ムロビシが痺れを切らして声を上げる。

「これ以上待ったら、アカアリが何を仕出かすか分かんないよ。何をしたとしても、まずは後部座席の君ら二人が餌食だけどね」
「キナリ! ボケてねーで早く乗れッ!」

 二人の切羽詰まった語気から察するに、アカアリの暴挙は嘘偽りなしに危険な状態のようだ。
 慌てて後部座席のドアを開け、アカアリが立ち上がっていないことだけを確認して乗り込んだ瞬間、まだドアを閉めてもいないというのに、ムロビシがアクセルを踏み込み急発進――したと思えば、すぐにブレーキを踏み込む。
 唐突な運転のせいで危うく外に放り出されそうになるキナリの髪を、カラスが条件反射で握り締める。

 キナリが抱えていた紙袋から、アクセサリーたちが砂っぽい地面と車のフロアに散らばる。

「……っぶねーな!?」
「いや、悪いね。アカアリがどうなってるかミラーじゃ見えないし、取り敢えず一旦すっ転ばしておこうと思って」
「先に言え!」
「ごめんて」

 カラスの怒号を耳にしながら、キナリは怒りの言葉が溢れるよりも先に張ち切れんばかりに脈打つ心臓の悲鳴を感じつつ、急いで散乱した雑貨を拾い上げ、シートによじ登り、ちょんと座ってドアを閉める。
 せっかく過呼吸状態から落ち着きを取り戻しつつあったというのに、振り出しに戻ってしまった気分だ。
 まだ使いもしていていない真新しい髪留めから砂埃を払って、心内で呪いを唱える。

「それにしても、カラスくんもキナリちゃんのこと助けてあげたりするようになったんだねぇ」
「あ?」
「いや、若人の成長に感動してるのよ、おいちゃんはさ」

 ムロビシは笑いながら、今度こそゆっくりと車を発進させた。

 空は程なく雨を降らす。
 野次馬たちもムロビシ一行の動向が気にならないわけではないようだが、雨の脅威には勝てないのか、家路に着く者も多く、先ほどまでの喧噪は徐々に収まりつつある。
 小気味良くギアをいじると、すでにがらんとした噴水広場兼駐車場で車を方向転換させ、元来た入場ゲートめがけてアクセルを踏み込む。

 通りの人影はほぼない。
 いよいよ本当に、その時が近づいているようだ。

「おや……勤勉な方々が見送ってくれるそうだ」

 呟くムロビシの肩から、カラスがフロントガラスを覗き込む。
 車の行く手を阻むように出迎える自警団たちの手により、ゲートが徐々に閉じ始められているではないか。

「連中、このまま雨で死にたいのかね」
「轢けば?」
「あぁ。時間もないしそうしよう」

 ムロビシがカラスの乱暴な提案を鵜呑みに肯定するのを耳にして、恐らくこのあと起こるであろう出来事に備え、キナリはいち早くシートベルトを装着し、体を小さくして俯く。

 躊躇いもなく車を加速させる。
 自警団の面々も焦ったように道を開けつつ閉門を急ぐが、どう悠長に見積もっても間に合う速度ではない。
 寸刻待たずして、うねりを上げる車が、半端に閉まったゲートの合間を突き破る。

 激しい衝突音と共に、凄まじい衝撃が車体を襲う。
 カラスは窓に頭を打ち、キナリはベルトに締め付けられ、どちらも呻き声を上げる中、ムロビシだけが楽しげだった。

「映画だったら銃撃で蜂の巣にされる展開だねぇ!」
「クッソ……マジで行くようなバカだったのかよ、おっさん……」
「話を聞いてもらおうか、カラスくん。自警団が銃器を持っちゃいないことは分かってるんだよ。というのも、おいちゃんこうして逃げるのは初めてじゃないからね」
「ジュウキとか、オレはそういうこと聞いてんじゃねーよ!」
「ちゃんとした根拠を元に判断してるってのに、あたかも同類みたいな目で見られるのは納得いかないもん?」
「もん? じゃねーよ……始めっから最後まで全部ムカつくなテメェ」

 カラスとムロビシの雑多とした応酬が続く間、車から異音はするものの、走行に大きな障害は起きていないようだった。
 ムロビシはちらりとルームミラーを一瞥し、自警団が追ってくる様子もないことを確認して言葉を続ける。

「ロットラントはここら一帯の物流拠点を担っているだけに、たまに本物の警察が滞在してることがある。怪しい組織もいくつか街を根城にしてるって噂だし、その辺の(しがらみ)もあって自警団そのもの形骸化寸前なわけよ」

 問い詰めてもいないのに垂れ続ける蘊蓄(うんちく)を半分聞き流していたカラスが、車の底から妙な金属音が断続的に鳴っていることに気づき、ムロビシの結った髪を程々強い力で引っ張る。

 随分気軽に他人の髪を引っ張るのが癖なんだなぁと、キナリは表情もなく目に留める。
 車から滑落するのを止めてもらったことには感謝しているが、毛根がチクチク痛むのは全く別の問題である。

「この音なんだよ。ぶつかったせいで車壊れたんじゃねーの」
「当然、壊れてないわけないんだけど、音の原因はタイヤのパンクを狙ったスパイク網だわな」
「スパイク?」
「トゲトゲがついた網。タイヤに穴開けて走れなくするためのね。ゲートの外に一式敷いてあったのは見えてたんだけど、敢えて踏み抜いてやったら刺さったまま巻き付いて来ちゃったみたいだねぇ。パンクするような上等なタイヤじゃないから、踏んだところで走れなくなることはないけど、車軸に絡まったら死活問題だから、みんなで無事を祈ろう」
「止まって外せよ!」
「それは無理な願いだ」

 何故か制止するムロビシの言葉の直後。
 車のガラスに、ぽつりと何かが当たった。

 黒々とした水――雨毒雨である。

 目にするだけで嫌悪感渦巻くそれは、しかし、数秒と掛からずに透明に変色し、車の進行方向に任せて後方へと流れていく。
 一粒降り始めてしまえば、そのあとは瞬く間のうちに続いていくだけだ。
 黒い雨は視界を奪うようにして降り注ぎ、すぐさま真夜中よりも暗い世界へと一帯を塗り替えていく。

「雨、降ってきちゃったね」

 漆黒の降雨に慣れ切っているムロビシは事実を呟くだけに留まるが、これほどまでに至近距離で雨毒を体感するのが初めてのカラスとキナリは、視覚的な不気味さと並び、それらが死をもたらす物質であることを朧気にでも意識することで、底知れぬ恐怖を身に覚えて硬直する。
 家の中から眺めたことは何度かあったが、ほとんど他人事であった当時とはまるで比較にならない忌まわしさである。

 ムロビシは失われた視界の代わりにコンパスを覗き込みながら、ハンドルをしっかりと握り直し、車の速度を緩める。

「食料やら生活用品の買い出しはできたけど、ケエは見つからず(じま)いだ」

 ケエの名を聞いて、キナリの表情が一気に曇る。
 雨毒に首ったけのカラスと、慎重に運転を続けるムロビシは、キナリの変化に気づく様子はない。

「まぁ、あれは元々無理難題だったから、誰も咎められることじゃないさ。あとで会社には報告しておくけど、特に気にしないでいいよ」
「……アカアリはおっさんの思い通り大暴れしたけどな」
「そうだねぇ。おいちゃん的には、そっちの方が大きな収穫だったかな」

 言って、カラスは思い出したように後部座席の背もたれからトランクを覗き込む。
 するとアカアリは、決して広くない空間で仰向けになったまま、足を折り畳み、縛られた手を胸の上に落とし、窓から外の景色を眺めてじっと動かないでいた。
 青い瞳は、果てなく黒く染まる空を捉えて放さない。
 その様はまるで……カラスは思ったことを、そのまま口にする。

「死んでるみたいだな」
「ハッハハ。アカアリに限っちゃ珍妙な喩えだ。ただ、確かに雨が降るとやたらと大人しくなる子ではある」

 いつの間にか取り出したタバコに火をつける。

「……今回も何人も殺しただろうにねぇ」
「あんな派手にやるなんて聞いてないっつーの。街に行きづらくなるだけじゃねーのかよ」
「半分正解、半分ハズレかな」

 ほぉ、と吐き出した煙の呼気が、密室である車内に充満する。
 案の定カラスが「くせぇ」と文句を垂れるが、もはやそんな小言に相手をするわけもない。

「黙っててもアカアリは目を引いちまう有名人だから、本人や連れである俺らの策謀に関わらず、ちょっとでも暴れたら未曾有の大災害ばりの騒がれ方をするのさ。今回も先に手を出したのがどちらなのか把握できてないけど、どちらにせよ、アカアリもあの怪我だ。相手が何人死んでるか分からないが、その辺はごく些細な問題で、俺ら推進派は市民から嫌われていたとしても、それ以外の味方は案外多い」
「たとえば」
「具体例はちょっと口外できないけど、金持ちからは好かれやすい。その方々がね、いろいろと辻褄合わせを手伝ってくれんのよ」
「うさんくさ」

 足を放り投げるようにして、シートに身を投げる。

「あぁ、胡散臭いことに間違いない! ただ、おいちゃん過去にも何度も今回みたいなことを繰り返してきてる。それでもこうして無事なのが信用できる証でしょ」
「できるわけねーわ。もうあの街には行きたくねーからな。ヨサメも近くで見れたし、用済み」
「おっ。そういう君に最高な朗報がある」

 カラスのぼやきに、何故かムロビシが快く同調を示す。

「雨は一応、このあと半日程度で降り止む予報でね。明日以降の天気が安定するようなら、ほかの推進派の人間が数名、家に訪れる予定がある」
「ハァ?」
「健康診断だとさ。あの書斎に揃えた陳腐な器具で採取したデータだけじゃ分からないことも多い。専門の人間が直接、肉眼で君らを診たいそうだ。その間は庭に出るのも禁止な」
「んなヒマなことやってられ――」
「もうしばらくは出掛けたくない気分なんだろう? ちょうどいいじゃないの。ついでに、おいちゃんは取引先との商談で留守にするのでよろしく頼むよ」
「おいコラ、話を聞け!」

 死の雨のもとだというのに、大したこともないように賑やかな男二人を眺めるキナリは、まるで別の世界に生きているような鬱屈とした気分でいた。
 雨毒がどれほどのものなのか、知る由もない。
 知る時は、きっと死ぬまでの時間を生きている頃だろう。

 アカアリは今日、恐らく人を殺した。
 彼女にとって、その行為がどういった意味をもたらすのか。
 彼女自身が言葉を操ることができないために、把握できることはこの先もなさそうだ。

 一方、キナリは今日、目の前で人の死を見た。
 この世界に生まれ出てから二度目となる、自分以外の死の瞬間。
 一度目は、肢体の感覚に慣れようとしている間髪に、カラスが絞殺した生みの親。
 そして二度目は、保護するはずだった老婆の廻人、ケエの自然死。
 どちらも同じ、人の死であるはずなのだが、何故か今日はいろいろと考えてしまって、苦しい。

(ムロビシ以外の推進派……)

 手に握っていたアクセサリーを、斜めにしたり、裏返しにしたりして見つめる。

(どんな人だろう)

 見知らぬ人間と会うことへの不安は大きいが、ロットラントで沸き起こった激情と無言で向き合うよりは気が楽だ。

(ムロビシが話してくれないようなこと、聞けるかな)

 彼が何かを隠しているのかどうかも分からない。
 ただ時折、不自然に会話の腰を折ることがあるのは紛れもない事実としてある。
 とにかくキナリには、知りたいと思う心はあっても、対象がどれほどたくさんあるのか、その全貌を計り知れないでいる。

 きっかけとなる一端でもいい。
 ケエから受けた刺激であったり、思考にかかる靄であったりを今後に活かすのなら、ムロビシ以外の人間と接触するのはいい機会であるはず。
 強さを増す雨へ、僅かに睨みを効かせる。

 遠隔操作によって開く二重構造のガレージシャッターをくぐり、車に付着した雨毒が時間経過で無色透明、無害化されるの待って家の中へと戻ったのは、キナリの決意から程なくのことであった。
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