2章 砕花(2)
「今日、これから行くのか……!? オレたちも一緒に?」
「うん。ただし、昼から夕方にかけて雨が降るらしいし、それまでに帰ってくる予定だから長居はできないけどね」

 鼻から煙を吐き出して立ち上がると、興奮して前のめり気味に話すカラスを退け、パソコンの横に置かれたファックス機から一枚紙を手に取る。
 確認するように一瞥してから、それをキナリへと渡して再びソファへと腰掛け、タバコの灰を爪弾いて銜え直す。

「保護班本部から夜中に届いた資料」
「……なんて書いてあるんだ?」

 キナリはカラスにも見えるように渡された資料を傾けて、二人揃って覗き込んでみる。
 老婆の顔写真のほか並ぶのは、数十行の細かい文字列。
 相変わらず文字に関してはちんぷんかんぷんのカラスがキナリへ読むよう催促するが、少女は僅かに肩を竦めて首を横に振る。

「ほとんど読めないけど、この写真の人のことが、たくさん」

 書面の一部を指して「ここに廻人って書いてある」と、カラスに説明する。

 キナリがしっかり認識して読み書きできるようになった文字は、数字と、常用字のうち約十文字。
 決して多くない数だが、これはムロビシが業務に忙殺されていたため、なかなか時間を割けなかったことが大きく関係している。
 カラスとキナリを保護したことで、本部とのやり取りが普段より倍々で増していると嘆いていた。
 それでもムロビシは仕事の合間を縫って、当初の目標通り二人に関わる単語を教える時間を二回設けてくれた。
 キナリ、カラス、廻人、星霜匣……これらを読めるようになっただけでも、キナリの自信のなさそうな顔色から靄は晴れたのである。

「……おばあさんの廻人もいるんだ」

 ムロビシを向き直り、言う。

「廻人の人口配分は、ヨサメ暴発当時の旧人類人口比率に準じて決定したって話だからね。老若男女問わずにいる」

 キナリの言葉に頷いて話す間も、足はひっきりなしに揺れている。
 貧乏揺すりというやつだ。
 何かにイライラしているらしい。
 こちらから踏み込んだ質問はやめるべきだろうと察してキナリは口を(つぐ)むのだが、隣の少年にその気遣いは備わっていなかった。

「足、ぶらぶらさせんなよ。目障りだっつーの」
「カラス……」
「あとタバコ、くせーって何回言えば分かんだよ」
「自分には緩いのに他人には厳しいね、カラスくんは」

 言って、ムロビシはカラスの顔面に向けて煙を吐きつける。

「くさッ」
「もうちょい口の利き方を心得なさい」

 ムロビシは別に怒ったわけではないらしい。
 ムロビシの年長者としての余裕に、キナリは鼻を抓みながら安堵する。
 もちろんカラスはそのあとすぐに噛みついて騒ぎ出したが、その辺の対処についてもムロビシはとうに慣れていた。
 あまり煩くするのなら連れて行かないぞ、と釘を刺すだけで大人しくなる。

「……そのばあさんがロットラントにいるらしくてね。本部から捜索と保護をしろとのお達しが来たわけ。二人は行ったことがないから想像つかないと思うけど、あの街を一人で探し回るのは到底無理だってくらい、めちゃくちゃ広い上に四六時中人が溢れ返ってる状態なもんで、四人総出で手分けをしようって魂胆だ。まぁ、一人が四人になったところで、数時間の滞在じゃ焼け石に水なんだが……猫の手を借りるよりは幾分マシかな」

 吸い殻が満杯の灰皿にタバコを押しやって消火する。

「食料もほとんど尽きてたし、そろそろ買い出しに行かなきゃなぁって考えは頭の隅にあったけど、さすがに寝る前に伝令の電話が来るとは思ってもみなかったよね……。信じらんないよ、うちの会社。いつまで起きて仕事してんだよって。その電話取れてる時点で俺も人のこと言えたもんじゃないけど……。いい歳こいたおいちゃんだってソファで不貞寝くらいするよね、普通に」
「起きたてのくせに気持ち悪いくらい喋るな」
「君、本当に学習能力ないね……。愚痴くらい聞いてくれたっていいじゃないの。どうせ食って怪我して寝てるだけの生活でストレスないんだし、おいちゃんの不満半分受け持ってよ」
「どう考えてもケガはストレスだろうが、ボケ」

 口を開けば幼稚な口喧嘩に発展させてしまうのは、ある意味カラスが持つ才能かも知れない。
 そう思うようにしなければ呆れて相手をするのも疲れてしまうことをキナリは実感している。

 ともあれ、ムロビシが機嫌を損ねていた理由は分かった。
 自分たちに向いていないのなら、そう簡単に怒らせることもあるまい。
 頭を掻きながらテーブルに着くムロビシと同じように、キナリも椅子を引いて座る。
 カラスだけは落ち着きなく立ったままでいる。

「……とにかく、俺が買い物しているうちから、二人とアカアリには街中でそのばあさんを捜してもらいたい。時間が限られてるから、詳しい話はロットラントに着いてから一度だけしよう」
「アカアリも一緒かよ……」
「当然」

 コンソメスープとパン、ジャム、野菜ジュース。
 朝食としては、まま十分な量だろう。
 ムロビシが固く閉まったジャムの蓋を外すと、食卓に甘い香りが漂う。

「あいつの嗅覚は引くほど鋭いぞー? どさくさに紛れて逃げようと思っても地獄の果てまで追いかけてくる勢いだ」
「んなことしねーよ、今んとこはな。オレが言ってんのはそこじゃなくて、街ん中に連れてって、オレたち以外が原因で暴れ始めたりしないのかってことだよ」
「たぶん大丈夫だと思うよ」
「……なんで」
「そりゃぁね、君。あんだけ郊外で通行人を殺して回っている女の噂が街に流れないわけないじゃないの。アカアリはこの一帯じゃ『血赤(ちあか)の亡霊』とか呼ばれて有名人なんだから」
「怖くて寄ってこねーって意味か」

 オレも必要がなければ寄りたくないな……ぼやいて、パンをかじる。
 男二人の様子を交互に眺めたまま、手を膝に置いてじっとしていたキナリが口を開く。

「ねぇ、ムロビシ」
「うん?」
「いつもの検査、どうする?」
「あー……」

 すっかり忘れていた。
 ジャムをたっぷり塗りたくったパンを口前で止めたその顔に言葉が浮いて出ている。
 ムロビシは部屋の三割ほどを占拠している検査器具たちを眺めて、少し考え込むように静止する。

 身長、体重、血圧、血液検査。
 これらを毎朝食前に行うのが日課となっていた。
 ここで生活する際の条件として提示された、サンプリング調査への協力に当たる。
 食事を口にした後では正確な値が出ないらしいのだが、すでにカラスは半分ほど食事を終えてしまっている。
 これでは無理だな……そう判断したムロビシと目が合ったはずなのだが、カラスは何故凝視されているのか理解していないようで、「気持ち悪い、見るな」と吐き捨てるだけに終わる。

「――帰ってきてからにしようか。昼食前に終わらせれば、本部への言い訳としては通用するはずだし」
「うん」
「でさ、カラスくん、座るつもりがないならアカアリ呼んできてよ。あいつ車に乗せるの時間かかるからさ」
「ういー」

 予想していたよりも早くロットラントへ行けることになったのが余程嬉しいのだろう。
 いつもなら指図されると必ず文句を言うのだが、車というキーワードを耳にした途端、最後に残していた野菜ジュースを華麗に手に取り、足取りも軽くアカアリの鎮座する廊下へと出て行った。

 分かりやすい子だね、と見送ったムロビシが、ふと何かを思い出して立ち上がる。

「あ、そうだ。キナリちゃんに言うの忘れてた」
「……?」

 仕事机に向かうと、一番下にある――ファイルなどが整頓されている大きな引き出しを開ける。
 がらがらと大きな音を立てて開いたそこから、オレンジ色が鮮やかな液体の詰められた瓶を二本取り出し、キナリの前にどちらも置く。
 顔ほどある大きさなので、結構な量が入っていそうだ。

「……これ、なに?」
「二人とも、もうずっと血液検査してるじゃない? その結果を逐一本部とやり取りしてるんだけど、どうもキナリちゃんだけ栄養失調気味らしくてね。これ飲ませろって送られてきたのよ。栄養剤、ちょっと甘めにつくってあるってさ。ほぼ毎回こんな粗食だし、カラスくんと違って食も細いから仕方ないのかね……。俺もがっつり肉食いたいなぁ、肉!」

 大声で嘆いたあと、ずずずっとジュースを飲み干す。
 塩漬けされたハムを食べたことはあるが、ムロビシの懇願している肉というのはどういった食べ方なのだろうか……。
 そこまで食に執着心はないが、ハムは嫌いではないので気になる。

 しかし、今それよりも気になるのは目の前の栄養剤である。
 恐る恐る持ち上げ、蓋を開け、鼻を近づけて臭いを嗅いでみる。
 やや薬臭いが刺激は少なく、ムロビシの話していた通り、かなり甘ったるい香りがしてくる。
 ジャムに負けず劣らずの香りの強さだ。

「一応カラスくんの分も含めての二本なんだけど、昨日渡したら『こんなクサイの飲めない』って突っ返されてね。もしキナリちゃんが苦痛でなければ、どっちも飲んであげちゃって」
「ふたつ一気に……?」
「そんな無茶な! 毎食後、コップ二割くらいの量で十分。最低でも一本分なくなるまでは継続してもらって、改善されればめでたしめでたしってところかな」

 朝食と栄養剤の説明を終えたムロビシは、本棚の中段に置いてある荷物を肩から掛ける。
 ロットラントの件で急いでいるようだ。
 キナリも慌ててでスープを口に含んだと同時に、廊下からカラスの短い悲鳴が聞こえてきた。
 驚いて空気と一緒にスープを飲み込み振り返ると、部屋の入口を通せんぼするようにして立ち、右腕を押さえて狼狽するカラスの姿があった。
 抉れるほど力強く引っかかれたのだろう、線を描いた傷から出血している。
 視線は廊下のアカアリを向いているが、明らかに挙動不審だ。
 心底不意を突かれたのが手に取るように分かる。
←前本編一覧次→