2章 砕花(3)
「立とうとしねーからちょっと腕引っ張っただけだろ! 痛ぇー……爪立てんなよ、バァカ! お前が最初から言うこと聞けばいいだけだっつーの!」

 アカアリ本人に文句を言ったところで理解も了承も得られるわけではないのだが……どうやら咄嗟の判断が仇となったらしい。
 キナリやムロビシは、アカアリが思うように動かないもどかしさよりも、とにかく穏便に済ませたい思いが強いため、彼女の扱いには相当な時間を割いて慎重に行うのだが、そういう考えはカラスにてんで向かない。
 そうは言ってもアカアリを部屋に呼び込むことには成功しているので、身を挺した甲斐もあったということか。

 のそのそと後をついてくるアカアリに怯えるように一定の距離を置いて、じんわりと血が浮かぶ傷口を見る。

「あー、クッソ。超痛ぇんだけど……」
「騒ぐとまたアカアリ刺激するよ」
「痛いモンは痛いの! っつーか、いつまで飯食ってんだよ!」
「これこれ、当たり散らさないの」

 カラスの癇癪などキナリはほとんど気に留めていないのだが、ムロビシが社交辞令的に仲裁に入る。

「アカアリも揃ったわけだし、準備が済んだらガレージに集合ね。できれば五分以内でよろしく。二人が用意してる間、アカアリは俺が引き継ぐよ」

 言って、ムロビシは空になった食器をキナリに任せると、体を左右に小さく揺らして退屈を凌いでいたアカアリの誘導を始めた。
 いつものように刺激しないよう声掛けてから、手招きなどで注意を引く。

 いよいよ慌てなければならない時間か。
 キナリも頬張ったパンをスープで胃に流し込んで、食器たちを洗い場に置き、乾燥を防ぐためそれぞれに水を溜める。
 洗うのは後回しにしてもいいだろう。

 左手で蛇口の操作をしつつ、右手でムロビシから渡された栄養剤のうち一本を掴もうとテーブルを振り返ると――むすっとするカラスが視界に映り込む。
 血を拭うこともしていないため、傷口から肌を伝って何滴か床に落ちてしまっている。
 どうして放置しているのか理解できず、小首を傾げて助言してみる。

「……出掛ける前に星霜匣に浸けた方がいいんじゃない」
「んー……」

 肯定なのか否定なのか判断のつかない生返事。
 異見されたのに物静かなままなのは珍しい。
 気味悪く思いつつも、キナリは乾いたグラスにオレンジ色の栄養剤を注いでみることにした。

 かなりの重量の容器を小脇に抱えて固定し、ゆっくりと傾ける。
 傾斜に耐えきれなくなって溢れ出てきた栄養剤は思いのほかドロッとしており、グラスの底に当たってもほとんど跳ね返りさえしない。
 もっと水に近い質感だと予想していたため差異に怯むが、ムロビシに言われた通りの分量に留め、恐る恐るグラスに唇をつける。
 口に含むのを躊躇っていると、一連の様子をじっと眺めていたカラスが、ようやくへの字の口を開いた。

「そんなまずそうなモン、よく飲もうと思えるな」
「……変なニオイするけど、甘いなら大丈夫だと思う。カラスみたいに鼻良くないし」
「ふーん……。やめといた方がいいとは思うけどな」
「――?」
「絶対まずいって勘がビビッときただけだよ。星霜匣んとこ行ってくるわ」
「うん」

 脅かすための悪戯だろうか。
 忠告のような言葉を残して部屋を出ていくカラスを見送りながらきょとんとしてしまうが、悠長にしている場合ではない。
 少しの勇気を絞り出して、グラスに注がれた栄養剤の半分ほどをぐびりと飲む。

「――……にがい」

 思わず感想が独り言として外に出てしまうほどの苦さに襲われる。
 ムロビシが説明していたとおり、甘味も確かについているのだが、苦味の方がそれを遥かに上回っている。
 不味い……カラスの勘を信じるべきだった……!
 残った半分を口に流し込むのが怖くて仕方ないが、迫り来る制限時間を意識してしまえば自棄(やけ)だ。
 グラスが逆さになるまで振り上げて、苦汁が舌に極力触れないようにして胃に押し込む。

(苦い、苦い……!)

 飲めば飲むほど苦痛が増す気分だった。
 嫌悪感に総毛立つのを感じながら、我慢ならずその場で小さく一回跳ね、文字通り臭いものに蓋をするように栄養剤を冷蔵庫の中にしまい込む。
 これを長期間かけて二本も空けなくてはならないのかと思うと気が重い。
 げっそりしながら水道水を捻り出して、数度うがいを行うものの、舌が痺れているような錯覚を覚えるほど、とにかく苦い。

 しかし、思いがけず訪れた難関を打ち倒すことは叶った。
 気分を改めるよう努めながら、早足で自分たちの部屋へと戻ると、カラスが星霜匣の前でじっとしている。
 負傷した腕だけ溶液に突っ込んで様子を見ていた。
 脇から覗き込む。

「治りそう?」
「おう。もうちょい」

 細いながらも締まったカラスの腕を囲うように、黄緑色の液体の中、青白い光の帯が静かに浮遊している。
 廻人が触れたときにのみ、こういった反応を見せるらしいが、どういう仕組みなのかは分からない。
 連日、アカアリに伸されたカラスの容態を見守りながらキナリが汲み取れたことは、あの光は怪我をしていなくとも現れるということと、今のように負傷している箇所があれば、より強い輝きを放つ光の帯が監視するように寄ってくるという二点。
 おそらく自分たちにとってあの光が疲労回復などの効果をもたらしているのだろうと思う。
 眠りから覚めた頃には光も傷もなくなっているため、確認のしようはないのだが。

 今までの経験上、指関節ひとつ分より浅い傷ならば、数分で表面に薄い膜が形成される。
 その下の損傷が修復しているわけではないため痛みは消えないのだが、ひとまず表皮さえ塞がれば行動できなくもない。
 これを毎晩繰り返していくと、数日で完治に至る。

 カラスの皮膚が再生するまであともう一息といったところ。
 そう察したキナリはカラスの側を離れると、壁際に二つ置かれたプラスチック製の小箱へと近づく。
 紫と緑の二色。
 ムロビシから二人に与えられた、急拵(きゅうごしら)えの私物入れだ。
 そのうち緑の箱を覗き込んで中身を漁る。

 カラスはあまり物への執着心がないため、ムロビシの机からくすねてきた飴玉やガム以外、ほとんど空の状態。
 一方のキナリは勉強道具や自分用のタオルなどをしまい込んでいる。
 その底から掻き上げてひっくり返すと、二週間前、アカアリが見知らぬ誰かから強奪してきた財布を掴み上げた。
 振ってみれば、ちゃりちゃりと小銭の擦れる音がする。

(お金、ロットラントで使ってみよう)

 ロットラントについてはカラスばかりが騒いでいるものの、実のところ、キナリも理由は違えどもそれなりの興味はあった。
 物流の要であるロットラントは、人や物がひっきりなしに動く大きな街だと聞いている。
 ムロビシの話でしか概要を得ていないため細かな部分までは想像も及ばないが、買い物という行為には特別関心があった。
 小遣いとして渡されたのはごく少額であるが、数字は読めるし、買いたいものもいくつか思い浮かんでいる。

 ――少し、ドキドキして楽しみだ。

「うっしゃー!」

 ふと、カラスが右腕を高く振り上げて叫んだ。
 どうやら、薄皮一枚できあがったらしい。
 激しく動けばすぐに開いてしまうが、いつもに比べれば掠り傷のようなものだし、もしぱっくり開いても大きな支障はないだろう。
 近くにタオルがあるにも関わらず服で水気を拭いて、キナリを振り返る。

「車んとこ行くぞ」
「うん」

 二人揃って浮き足立ちながら廊下へと出、車のあるガレージに向け歩を進める。
 何と言っても、二人にとっては初めての遠出。
 気分も自然と高揚する。

「待ちに待ったヨサメとのご対面だな」
「迷子にならないようにしなきゃ」
「それはそれで、オレたちには好都合なんじゃね?」
「あ……そっか」

 そうなったとしたら、それはつまり、自由を得るということか。
 カラスのひょんな言葉を耳にして、自分たちが随分と大きな岐路に立とうとしていることを自覚し、キナリは期待と恐怖を僅かながらに抱く。
 そんな少年少女の企てを嗅ぎつけてか否か、ムロビシがガレージの入口から顔を出した。
 アカアリの姿は近くにない。

「お、来たね」
「アカアリは?」
「シートに座らせると暴れるから、荷物と一緒に後ろに乗せた」

 ガレージに繋がる段差を降りると、大きな車が目の前に佇んでいた。
 その後ろに設けられたリヤガラスを覗くと、じっとカラスを眺めるアカアリと目が合う。

「……オレもこの方が安心だな」
「君らは後部座席だからね。後ろから頭取られないように気をつけなよ」
「頭ぁ?」
「そのままの意味だよ。背後から不意にやられないようにってこと」

 アカアリなら十分に有り得るだろう?
 ムロビシが冗談で言っているのは分かるのだが、言い過ぎでも何でもなく、違和感なく有り得てしまいそうなのが怖い。

 無駄口を叩くのはこの辺りで止め、ドアを開けて乗り込む。
 建物の外へ車で出たことはないが、ムロビシの忘れ物を取りに何度か車内に潜り込むことはあった。
 カラスもキナリも慣れた様子で後部座席に着くと同時に、ムロビシの手により火が点いたようにエンジンが起動。
 二人は臀部を通じてその振動を感じる。

「おお……!」

 感動的な体験だと言わんばかりに、カラスが感嘆の声を上げる。
 ほぼ間もなく運転席の窓を開けたムロビシが、車内に放置してあった小さな機器を手に取り操作すると、外へと通じるシャッターが左右へ重たげに開錠。
 さらにその先、もう一枚のシャッターが現れるが、上下に開くことでようやく外気が吹き込んできた。
 シャッター付近から『ピッ』と電子音が飛んできたのを確認し、ムロビシがアクセルを踏み込む。
 ゆっくりと車が動き出したのを感知してか、先ほどの電子音は一定間隔で鳴り続け、やがて車体が全て外へ出るのとほぼ同時、シャッターは自動で閉まり始めた。

「雨毒の粉塵をなるべく侵入させないための構造になってる。全部オートメーションだから、この鍵を家に忘れて雨に遭ったら死ぬかもね」

 窓を閉め、ダッシュボードの上に鍵を置いてムロビシは言う。

「不便だな」
「便利なんだけどねぇ」

 頭の後ろに手を回しあぐらを掻くカラスは、それはどうでもいいように雑な感想を運転席へ投げるが、ムロビシも同じようにせせら笑った。

 四人の乗った車は、舗装されていないだだっ広い悪路を往く。
 穴がぽっかりと開いていたり、隆起したような段差などが現れたりというのはざらだ。
 道が悪いために、ムロビシの所有するこの車は車高の高い四駆。
 ちゃんと整備しているのか怪しいが、エンジンはご機嫌に唸りを上げて速度を上げていく。
 通行人が生身で歩いていることもほとんど有り得ないからだろう、一切速度を落とそうとしないムロビシは、ハンドルも碌に握ってすらいない。
 運転し慣れている彼は、どの辺りにどれほどの段差があるかなど心得ているのだろうが、初めて乗車したカラスとキナリは、激しく揺れる車内で体を打撲しないようにするのが精一杯だ。
 タイヤから伝わる衝撃に驚いては思い思いの悲鳴を上げる。

「おお、お、おっさん、おっさん! この揺れ、もっとどうにかならねーのか!?」
「ゆっくり走ればどうにかなるよぉ。でも今日はちんたらドライブしていられるほど暇じゃないんだわ」
「さっき食べたの、口から出ちゃいそ……うっ」
「ばっ……! そのゲロ絶対飲め、吐くなよ!」

 口元を押さえて青白くなるキナリに辛辣な激励を飛ばしつつ、トランクに押し込まれていたアカアリをちらりと横目で見る。
 てっきりガタガタになった荷物に埋もれているものだと思っていたのだが、なんと、車体右側に背を、左側に足を伸ばして突っ張ることで体を固定しているではないか。
 襟元についたファーに顔を埋めて、むしろ居心地良さそうにしている。

(こいつ……こういうときだけめっちゃ頭良いな……!)

 運転の荒さへの怒りも収まるほど拍子抜けし、ある意味で感心すらしてしまう。

 そうこうしているうちに丘を降り終え、道もいくらか平坦になって揺れが落ち着いてきた。
 ようやく一息つく余裕を得た――キナリはまだ気分が悪そうに?(えず)きかけているが――二人へ、ムロビシは前方を指差す。

「ちょうど真正面に、他の建物よりもこんもりした部分あるだろ? あそこがロットラントの玄関口になる」

 多少の揺れはあるものの、視線の維持くらいはなんとかできる。
 ムロビシの示した方向を見ると、確かに一部分だけ分かりやすく建物の高さが違っている。
 来訪者を待ち構える大きな屋根はアーチ状を描いてはいるものの、妙に角張っていて無骨な印象だ。

「三年前、最初に雨毒を観測したときが一番多く人が死んでね。そのときに望まず空き家になった民家を解体することで捻出した建材を使って、主要な街道に屋根を取り付けたんだ。雨毒が降ってから街の中まで砂埃が舞うまでのラグを設けるのが主な目的だな。その中でもあそこが主幹道路ってことで、簡単な検問が敷かれてる」
「いちいち難しいな……。取り敢えず街に入るならあそこからってことだろ」
「まぁ、そういうこと」

 さて、とムロビシは話を切り出す。
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