2章 砕花(7)
「――……ケエ」

 老婆の腰はひしゃげたように曲がっていて、小柄なキナリよりもさらに身丈が低い。
 弛んだ瞼から覗ける小さな瞳はキナリを見上げ、骨と皮ばかりの弱々しい細い腕を少女の手首へと伸ばしていた。
 しかし、妙なのは老婆のその腕にあった。
 掌があって、五本の指が生えていることに変わりはないのだが、それに握られた瞬間にキナリが覚えたのは、痒みのような、痛みのような、どちらにしても決して心地の良くない感覚。
 老婆がケエであることを確信してからその違和感の正体を視認したのだが、それでも目に飛び込んできた物が一体どういうことなのか理解するには一寸の猶予を要した。

 古びた布でできた服の袖口から見えたケエの腕は、夥しい量の棘のようなものに覆われていた。
 法則性はなく、やや血色の悪い肌がささくれのように鋭く隆起しては、外へ外へと向かっている。
 それらがキナリの肌に触れ、刺激し、微弱ながら痛みを生じさせていたのだ。
 怪我でもしていてこんな状態に陥ったのだろうか……?
 未だに収束を感じさせない街中の騒音に気を配りながらも、老婆の奇怪な手への好奇心は止まない。

 キナリの呟き声を聞き取った老婆は、誰に見せるでもないような小さな頷きの後、言う。

「私の名をご存知であるのなら、貴方がキナリさんですね?」

 教えたわけでもないのに自分の名を呼ばれ、多少の警戒心は抱いたものの、これまでの出来事に比べればどうというほどのことではない気さえする。
 キナリがケエを知っているのだから、向こうが同様の状況下に置かれていても何ら不思議ではない。
 続出する急展開に慣れ、麻痺してしまったのもあるだろう。
 静かに首を縦に振り、肯定を表す。

「そう、良かった……」

 言葉の通り、ケエは心底安堵したような声色を放った。

「ソウさんから貴方のことをお聞きして、一目お会いしようと思いましたのよ」
「ソウ……?」
「保守派と呼ばれるお方です」

 保守派。
 聞き覚えのある、嫌悪の対象となる単語だ。
 ムロビシが門番の男たちを引き合いに話していた、キナリたち廻人のことを快く思わないという人々。
 企みに用心し、棘だらけのケエの手を遠慮がちに払って、一歩間を置く。

 アカアリの動向も気に掛かるところだが、果たして今すぐに逃げ出していいものなのだろうか。
 ムロビシからの頼まれ事を消化するには千載一遇の好機である。
 紙袋を腕の中に大事そうに抱えてじっと黙るキナリへ、ケエは穏やかに続ける。

「無理もありません。私も警戒するべき相手だと聞かされていましたから。けれど、彼は話のような悪人には見えませんのでね」
「…………」
「騒ぎの傍らでは落ち着きませんね。もう少し、通りから離れましょう。なに、ご覧の通り、私の手足は碌に使えたものではありません。(ばば)の世間話にお付き合い願いたいのです」

 足を砂ばかりの地面に摺るようにして歩く。
 歩幅は狭く、どこか痛むのか、(びっこ)を引いている。
 キナリが後をついて来ることへひとつの疑心もないようで、振り返る素振りも見せず、アカアリを巡る喧噪が広がる大通りを避けるよう、狭い路地をひたすら進んでいく。
 歩む速度は遅いが、確実に離れていくケエの小さな背を放っておけず、一定の距離を保ったまま追うことにした。
 いろいろと不明瞭な点があるものの、ロットラントへ来たのは元より彼女に会うためだ。
 迷いはしたが、こうするしかない。
 アカアリについては後回しだ。
 彼女の頑丈さは身を持って保証できる。

「……手、どうしたの」

 神経を張り、最も気になる点を真っ先に問う。

「それについて、貴方にお伝えしたくソウさんを頼りましたのよ。お連れさんが気を引いてくださっているそうですし、早々に参りましょう」
「アカアリのこと、知ってる?」
「お名前くらいしか。ソウさんがこうなることを予言しておられて。いくつか助言いただいたあと身を隠されてしまったので、私も彼がどのような思惑をお持ちかまでは存じませんのよ」

 ソウという人物がこちらの事情に詳しいようなのは気がかりが、アカアリの起こした混乱に乗じてこの場を離れるのは、非力なキナリにとっても都合が良い。
 非常に鈍足ながらも、老婆と少女は大通りから離れ、巨大なアーケード街から、人通りも屋根もない閑散とした地区へと向かっていく。

 そんな二人の後ろ姿を、屋内の窓辺にもたれ掛かりながら、遠巻きに見守る若い男がいた。
 立派とは言えない細い体格を覆う衣服は、かなりゆとりのあるサイズである。
 布の質量も高く、色味が地味な割には目立つシルエットだ。
 首周りにはストールが緩く巻かれていて、それらの隙間から僅かに胸板が見える。

 青年は晴れぬ表情のまま、波を描く髪をいじり、憂鬱を吐く。

「こうしてボケッと眺めるくらいしかできないんだもんなぁ……」

 やがてケエとキナリが遠くの建物に隠れて見えなくなると、大きく溜息をついて室内へと視線を戻す。

 暖色のライトに照らされた部屋には、小さなテーブルが一脚。
 部屋の大きさの割に電球の照度は足りていないが、壁に飾られる赤い織物の効果で寒々しく感じるようなことはない。
 青年が座っていたのは、テーブルを囲むように並べられた二つの椅子のうちの片側。
 対面するもうひとつには、肩ほどまである黒髪が威圧的な別の男が、仏頂面を貫き座っている。
 その無愛想な男を振り返り、テーブルに肘をつくと、青年は前のめりに提案を持ちかける。

「やっぱりさ、一基でもいいから街のどこかに星霜匣置けないかな」
「……金のアテもないのにか? ケエ本人がこれでいいって選んでやってんだ。俺らがこれ以上干渉する必要はないだろ」

 至極真面目な様子の言葉を、しかし黒髪の男はほとんど相手にもせず、そう言って一蹴した。
 冷めた返答であったが、青年はこうしてあしらわれることを予め覚悟していたらしい。
 呆れた表情を頬杖で支える。

「兄貴ってそういうとこ薄情だよね」
「……用件は何だ。手短に話せ。あの二人の様子を見物に来たってだけじゃ帰れないぞ」

 タバコに火をつけた黒髪の男は、伏し目がちに愚痴っぽく話す。
 するとそこへ、部屋の隅のキッチンに立っていた女性が、ソーサーに乗ったカップを二脚運んで寄ってきた。

 先程、キナリの相手をしていた雑貨屋の女店主だ。

「せっかくタダで間借りさせてやったって言うのに、顔合わせるなり兄弟喧嘩なわけ? 騒ぐならちょっとは家賃よこしなよ」
「俺をヒモみたいに扱うな」
「ヒモ同然じゃない。っていうか、部屋に臭いつくからタバコはやめてくれない?」

 女店主を面倒臭そうに相手しながら、煙に満ちた呼気をふぅっと噴く。
 注意された直後にその挙動とは……当てつけとしか捉えられない。
 大人げない悪戯に耽る兄を遮るようにして、弟の方が苦笑を浮かべて挨拶に入る。

「いやぁ、メイさん。いっつも兄がお世話になってます。会って話すとすぐこういう空気になるから、普段からあんまり連絡取らないようにしてるんですよ」

 絵に描いたように対照的な二人へ、女店主は交互に目を配る。

「ソウくんはこんなに出来のいい子なのに……。ロウの方は何を間違えてこんな無作法な仕上がりになったのやら」
「そんなお粗末な俺を選んだのは、何処の何方かな」
「どうすればその減らず口は黙るのかしら」

 兄弟それぞれにカップを置いた女は、傲慢なロウの言葉に対して満更でもないように笑い、部屋の奥へと消えていった。
 何が楽しくて兄と恋人の遣り取りを眺めなくてはならないのだろうか。
 弟のソウは鉄仮面のような微笑を浮かべたまま、遣る瀬ない思いに駆られた。

「……前に会った女性とは全然違うタイプだね。面食いなのは変わらないけど」
「たまには元気な女もいいぞ」
「いま何股してんの?」
「片手指で収まる。ロットラントだけならな」
「あっは、最低だ」

 毒気のない爛漫な語勢で軽蔑の一言を見舞うも、兄のロウは一つも悪びれることなく、むしろ怪訝そうに御託を並べた。

「いくら遊んだって構わないだろ。間違ってガキができる心配もない。合意の上だぞ? お前は奥手過ぎる」
「俺はこれでいいの」
「なら、俺もこれでいいの」

 ロウはからかって、再びタバコの煙を燻らす。

「……こうも碌でもない男が身内だと思うと悲しくなるよ」

 諦めず悲嘆を漏らしつつ、懐に潜り込ませていた小さな手帳を探り当て、ロウに手渡す。
 掌にも満たない大きさのそれを受け取り、タバコを唇で挟んで、耳の折られたページを開いて一瞥。
 行線を無視して書き留められたソウの丸っこい字が、数十行に亘って綴られていた。
 そのうちいくつかの内容を掻い摘んで読み、鼻で笑う。

「推進派の今後の動向か……しばらくは目立たないな」
「低性能の機器で傍受できた分だけだから、信憑性は低いけど。あのムロビシって男、近々シグレとの対面取引も予定があるみたいね」
「雨毒ビジネスで荒稼ぎしてるだけなら何でもないんだが、もうちょい厄介なとこまで首突っ込んでるだろうな」
「星霜匣施設の襲撃事件も噛んでるんだっけ?」
「筆頭出資者だ。そこも含めて、善良な企業じゃないのは誰の目に見ても明らかだろ。ま、いざ蓋を開けてみたら貧乏臭い内容かも知れないけどな」

 根本近くまで吸い切ったタバコを灰皿に押しつけて火を消す。
 手帳のページも閉じて、ソウに返却する。

「襲撃事件でしょっ引かれた廻人、結局全部研究所でバラしたらしい。五十体くらいか。廃棄担当食らったって、トイトから愚痴が来た」
「うーん……。想定内の流れかな。それにしてもさ、トイトさんもよく辞めないで研究職続けてるよね」
「俺の件もあって、辞めるに辞められないんじゃないのか。ラヤンは……完全に自棄だな」
「どっちみち、逃げた兄貴の身代わりに別の研究所で軟禁生活強いられてるんでしょ? ほんと、碌でもない男だわぁ……」
「俺を庇うのが限界だと思ったら口を割れとは伝えてある。まぁ、元々あの“ハコ”に連れて行かれた時点でこうなることは分かってたんだ。俺も、お前も、あの二人も」

 背もたれに体を預けて、窓の外を見る。
 空は、今日も黒い。
 もう間もなく雨が降ってくる予報だ。
 あれほどまで不穏な雲を眺めれば、ラジオの天気予報など聞く必要もないのだが。

「雨をどうにかしない限り、この国に自由はない。状況はあの時も今も変わらないな。碌でもないのは俺以外にもたくさんあるだろ」
「お先もお空もこんなに真っ暗なんじゃ、そりゃあね」
「上手いこと言ってやった、みたいな顔するな。こっちが恥ずかしい」

 メイが置いていったカップを、今更思い出したかのように持ち上げ、口元で傾ける。
 香りの薄い紅茶だ。
 明らかに質は悪いが、これも国内では相当な贅沢品だろう。
 心遣いを感じながら喉を潤す。

 不意に、兄弟の間に沈黙が流れる。
 別段気まずいというわけでもない、よくある無言の間。
 二人ともに、話すべきこともほとんど尽きてしまっただけだ。
 どれくらいの秒数が過ぎた頃か、分厚い漆黒の雲に視線を向けたまま、ロウが独り言のような声量で呟く。

「……アカアリの様子は変わらないか」

 味気ない茶を啜っていたソウは素直に頷く。

「元気だよ。心なしか少し痩せた気はするけど」
「それは思い過ごしだな。アレはそういう体のつくりじゃない」

 ソウの単なる感想に対してロウが放ったのは、一切の異論を認めない強い語気の否定であった。
 もし彼を知らない人間が今ここにいたとしたら、多少なりとも嫌悪感を抱くことだろう。
 親族であるソウが驚くことはないが、それでもあまり気分のいい物言いでないことに変わりはない。
 本日何度目かの溜息の後、諭すように言う。

「あのさぁ。気になるならたまには顔でも見てみればいいんじゃないの?」
「会ったところですり寄って甘えてくるわけでもないだろ」
「えぇ……そういう問題かな……」
「それより問題なのは、お前のアカアリへの対応だと思うけどな」

 おもむろに立ち上がったと思うと、ハンガーに掛けていた黒いロングコートを乱雑に羽織る。
 紅茶も飲み切らぬ内だが、帰路につくようだ。
 兄の落ち着きのない生活を憐れむソウは、動じることもせず次の言葉を待つ。

「あいつは犬や猫とは違う。壊れても直せる機械でもない。ああいう扱いをさせるために世話を任せたわけじゃないぞ」
「どの口が言ってるんだか。やり方は節操がないって言いたいワケ?」
「……基を正せば、俺の身勝手が招いたって事実を棚に上げるつもりはない。ただ、最近は少し目に余る」
「それは兄貴と俺の、新人類に対する考えの違いだよ」

 今まで大人しかったソウも、言われてばかりは納得がいかないのだろう。
 語気を強めて食いかかる。

「俺は兄貴ほど洞見に優れるわけでも、コネがあるわけでもない。今はケエさんやキナリちゃん、カラスくん……手の届く範囲の廻人の生活だけでもサポートしたいと思ってる。そのためには、アカアリが嫌がらないことに関して手伝ってもらってるってだけだ」

 いきり立って立ち上がるわけでもなく、大きな声で怒鳴りつけるわけでもなく。
 ソウの言い分は湯水のように溢れ出て、すぐさま完結を迎えた。

「雨毒の方は、兄貴がどうにかするんだろ?」

 思ってもみなかった弟の気迫に怯んだのか、ロウはほんの一瞬、応酬を詰まらせた。
 しかしすぐに左の口端を僅かに持ち上げると、一言のみ、返事とした。

「――当然」

 それを別れの言葉に代えると、ロウは黒い髪とコートを靡かせ、革靴の踵を鳴らして部屋を後にする。
 恋人であるメイにも何も声を掛けずに外へと向かい、混乱の続くロットラントの人波へと飛び込んだ。
 そんな兄の背を変わらず窓辺から見送るソウもまた、どこかおかしそうに口元を緩ませて、冷めた紅茶を啜る。
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