2章 砕花(8) | ||
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幅を詰めるように建ち並ぶ家屋の間を、ロウは足早に進んでいく。 向かう先は大通り。 例の騒動はソウと話しているうちに程々沈静化しているようで、鬼気迫る叫び声などは聞こえてこない。 (……自警とは鉢合わせたくない) ロウには、このロットラントという街に長居できない理由があった。 原因はたかだか二年前のこと。 国策であった新人類開発に携わっていたはずが、ひょんな好奇心を抑えきれず踏み切った行動が祟り、関係者から大罪人として扱われてしまった。 ただ、それだけ。 暴発したヨサメにより放たれた雨毒からネヴェリオ国民を救済すべく旗揚げされた新人類開発機構。 機構の管理する直属研究所に配置され、寝ても覚めても研究に勤しむ日々を送っていた。 とは言っても、国を救うために心骨を捧げていたわけではない。 親からの圧力で医者を目指していたため研究員としての素養はあったし、医者よりは人造人間でも研究している方が、衰退し切ったこの国で生きるには有意義だと思ったまで。 元々、そういう性分の男なのである。 雨毒が初めて観測された日。 未知の脅威に警戒音が鳴り止まぬロットラントの街中で、ロウは怠けた双眸を皿のように並べて、常闇の空を仰ぎ見ていた。 未だかつて、どんな人類も見たことがないとされる死の雨が、間もなくこの国に降り注ぐのだという。 国は総力を上げて危険信号を発し続けたが、そのような大規模な災害を、自宅に籠城したところで回避できるとは到底思えなかった。 全く勝ち誇ることのできない絶対的な自信が湧いた頃には、無自覚に家を飛び出していた。 自死に関心があったわけではないが、どうせ雨ごときで死ぬのであれば、一目散に浴びて死んでやろうと意気込んだわけだ。 とにかく、人生に興味がなかっただけに、当時は迷いなど毛ほどもなかった。 ――黒い雨の味といえば、舌が焼けるほどまずかったことを痛烈に覚えている。 しかし、この世は性根の曲がったもので、大人しく家に篭っていた連中はたくさん死んだというのに、直接雨に触れたロウは悪戯とも取れる数奇な境遇により生き残ってしまった。 悪運だけは矢鱈と強くて滅入る。 その悪運はこれだけに収まらず、もう一度望んでもいないのに力を発揮してしまったのが件の二年前。 勤めていた研究所の突如としての爆破、崩落に巻き込まれたのだが、これも何故なのだろうか、生き長らえてしまった。 肋骨をいくつか折る大怪我ではあったものの、今もこうして五体満足を維持しているのだから命というのは不平等極まりない。 数週間振りに訪れた街並みを横目に、瞬く間のうち過ぎ去った二年の刻を回顧していると、目指す大通りへと辿り着いていた。 雨の予報が出ているとはいえ、普段なら人の往来はかなりのものなのだが、まるで廃墟に来たかのように静まり返っている。 この様子だと、まだ自警団も駆けつけていないらしい。 全く、自警とは名ばかりの間の抜けた連中だと心奥で罵言を吐く。 宛てのある場所をいくつか覗き込んでいく内、目当てを見つける。 分断された状態で転がる複数の遺体の先、返り血で真っ赤になった女が膝を抱え、じっと一点を眺めていた。 その瞳は遺体の至る箇所を頻りに追っている。 白い髪、空色の瞳、透けるような白い肌……二年振りに見る女の風貌は正常な姿に“戻っていた”。 崩落した研究所の天井に押し潰され、頭部を含む左半身だけで動いていた肉の塊が、ロウの記憶に残る最後の女の姿であった。 それまでにもその再生能力をまざまざと観察してきただけに驚きはしないが、歓迎すべき結果とも受け入れられない微々な葛藤を抱く。 これが、ロウの“ひょんな好奇心”の産物であるためだ。 「――久し振りだな」 無残に死に絶える大柄な男たちを無感動に見下ろしつつ、女へと寄る。 あと半歩ほどまで近づいたところでようやく目が合った。 興奮気味なのか、彼女は眩しいほどはっきりとした空色の目を大きく見開いたまま、それをぱちくりともさせようとしない。 妙な威圧感に警戒しながらも、ロウは声を掛け続けることにした。 過去の経験上、こういう状態の彼女に対しては、下手に動くより刺激しないで済む。 「お前、いつ見ても頭から血被ってんな」 「…………」 「初めて見たときも、最後に見たときもそうだ」 彼女との初顔合わせも、二年前。 無造作に伸ばしたうねりの強い白髪は、何故か血を浴びて半分ほどが赤く染まっていた。 鎮静薬で眠りに就いていた様相に違和を見、彼女を引き連れてきた担当者に経緯を聞くと、「これを外に出すときはいつもこうだ」と無骨に返された。 ……なるほど。 高揚して暴れ出すのは今も昔も変わっていないらしい。 「ソウから名前つけられたんだってな」 「…………」 「しかしアカアリって、安直過ぎだろ」 「……う」 ロウが一方的に語り掛けるだけであったやり取りが、アカアリの呻き声を皮切りにがらりと色味を変えた。 ロウにとって、アカアリのそれは初めて目にする反応である。 「――マジか。返事しやがるぞ、こいつ」 思わずニヤリと口元を歪ませるのを何とか自制し、アカアリの右脇に手を通し、引き上げて立ち上がらせる。 一瞬、ロウの行動に驚いたように体を強張らせたものの、激しく抵抗するようなこともなく、ふらつきながらその場に居直った。 足元がなかなか安定しないのか、しばらく左右に体を揺らしていたが、それも直に収まり、地面に放り投げていたナイフを左手で拾い上げてからロウと見合う形になる。 衣服の一部は破損していて、そこから露わになった首、胸元、腹などに痣や切り傷が見受けられる。 いくらアカアリが規格外に強くとも、数人に囲まれれば無傷で済むわけもないようだ。 利き手であるはずの右腕も折れているのか、腫れ上がった様子はひどく痛々しいが、それでも本人はその手の苦痛を一切表に出さないでいる。 彼女は別段、痩せ我慢で無表情を装っているわけではない。 生まれつき痛覚という概念がないだけだ。 ロウはそれが最初から分かっているだけに、この奇妙な生き物へ特別蟠りを感じてしまうところがあった。 共に働いていた仲間が表立って諷するほどに。 ――いや。 ともすれば、この嫌な感情が興味というやつなのかも知れない。 それでは困る。 早いところ解消しなければ生きづらくて堪らない。 微塵の思考も宿さぬアカアリの視線に刺されて、ロウは羽織を翻して来た道を戻り始める。 「こっち、ついて来い。ケエとキナリのとこまで案内する」 手招きさえせずに言うが、不思議なもので、アカアリは呼ばれたことを理解しているかのようにロウの後を追い始めた。 二年も前のことながら、ロウの姿形を認識しているのか。 それとも多からず言語を理解しているのか。 はたまた自身に向けて声が放たれていることだけを感じ取っているのか。 あるいは単に動くものを習性的に追従しているだけなのか。 いずれにしても、底の知れぬ面白味を持つ対象だと思う。 道中、ロウとアカアリは無言を貫く。 アカアリから何かを発信することはないとして、ロウにはこの行動がどうにも腑に落ちないでいた。 元より、いち早くこの街を離れたい身としては、ソウが企てた作戦一連の尻拭いなどするつもりはなかった。 ケエとキナリという廻人についても、直接会ったこともない。 そこへアカアリを押しつけに行く必要性を鑑みると……何物だか分からない不満に駆られて仕方がないのだ。 もし、この精彩を欠いた思慮から逃れるためだけに歩みを止める勇気がないのだとしたら、確かにソウの言う通り、なかなかに碌でもない男であるだろう。 人としての形状を保ってすらいなかったアカアリを、自身の体を癒やすまでという条件でソウに押しつけたのは、紛れもなくロウである。 折れた骨を取り除いて完治に運んだにも関わらず、口先ばかり誑かして生きているのは自覚している。 罪の意識とか言うつもりはないのだが、もはやアカアリを振り返る気力もない。 今の自分には、砂埃に汚れた革靴の踵を擦り、雨の気配を強めるロットラントのスラムを行くしかないのだと悟って、また、タバコを灯すのである。 | ||
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