2章 砕花(9) | ||
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アカアリが見知らぬ男と共に接近しているとは露ほども知らず、キナリはケエに導かれるまま、資材置き場のような袋小路に立っていた。 錆びたトタン板や腐食した木材、途中で折れた管材などが、壁の崩れ落ちた家屋に立て掛けられている。 ただ乱雑に置かれているわけではなく、ある程度の整頓がなされているのを見ると、いずれも壊れているようだが、今後も雨を凌ぐための補修材として使用されるのを予見できる。 そういった建材の横、ケエは雨風で朽ちかけた木製箱へと背を預けて静かに座り込み、棘の腕を擦る。 「……体中が痛くて敵いませんのでね」 言って、皺だらけの顔を、何故だかホッと綻ばせる。 どうして痛いのに笑っているのだろうか。 幼いキナリに、その真意は分からなかった。 行き止まりまで来てしまっては、いよいよ体を動かす理由もなくなり、落ち着きを得るにはどうするべきか、小さな空間をキョロキョロと見回す。 しかし何も頼りがいがないこと知ったキナリは、壁際にそっと身を寄せることで視界を狭めることを試みる。 あちらもこちらもと多くが見えていると却って不安になるのだ。 互いが所望する位置を確保したのを察すると、やがてケエが口を開く。 「さて。時間もないことですし、手早くお話しさせていただきましょうね」 滑らかではないものの、丸っこくて愛想のある声が静寂にぽつりと転がる。 確かに、小さく吹く風に乗って届く湿度は、底なしのように上昇を続けている。 時計を持っていないために時刻を確認する手立てもないのだが、集合の合図としてムロビシから言い渡された昼の鐘も、今頃は着々と準備を始めているのではないだろうか。 次の身の振りを考え巡らせて黒空を眺めて耽るキナリに、ケエは優しく問いかける。 「キナリさんは、星霜匣について保護班の方からどの程度のことを教わっているのかしら?」 どの程度とは、どういうことなのか。 キナリは小首を傾げ、眉を僅かに顰めて疑問を体現すると、ケエは静かに頷いた。 「ごめんなさい、分かりづらい聞き方をしてしまって。私の親に当たります御方からお話しいただいた星霜匣についての知識といえば、旧人類の皆さんが扱う家具に言い当て嵌めるのであれば、お風呂やベッドのような物に近いというお話が最初でした」 「……わたしも、ムロビシにそう聞いてる。星霜匣に入れば傷も治る」 「ええ、確かに。けれど、ソウさんからお聞きするに、それは概念としての教えに過ぎないそうです。大事なのは、そこではありませんの」 ケエが語ることがいかに重要なことなのか……そればかりは予測もつかないが、いずれにせよ、キナリにとって知識欲を刺激されるものであるに違いない。 そう想像し、期待と不安を胸に微かに高ぶる中でも、ケエの口から再び出てきた見も聞きも知らぬ人物の名にばかり気が行ってしまって仕方がない。 すでに一度問いかけたことだが、念を押して尋ねることにする。 「ねぇ、ケエ。結局、ソウって誰?」 「先程お話ししたように、保守派の方であるということ以外、ほとんどのことは知りませんのよ。本当に」 「……知らない人なのに、言うこと信用するの?」 同じ問いを投げたところで、返ってくる内容もまた、同じであった。 実に不毛な遣り取りを終え、キナリはなんとも理解できないケエの感覚をちくりと刺すのだが、彼女はそんな些細なことで身構えることなどなかった。 「そうですね。あぁ、ひとつ言うならば、世話焼きの好青年といった風貌かしら。悪い人かどうかは分かりませんけれど、お顔はなかなかいいのよ」 可愛らしくてね、と冗談を言って小さく笑う。 「ロットラントから少し離れた場所に、ベンゼルという集落がありまして。私は……いえ、他にも老いも若きも、生まれたばかりの廻人がたくさんいましたから、私たち≠ニ言うべきでしょうか。私たちはそこで、フウメイという名の女性によってつくられましたの。黒髪を綺麗にされて、艶っぽい、よく笑う御方なので――」 愉しそうに話していたところ、「いやね、もう話が逸れてしまって」と軌道を修正する。 カラスやムロビシと比べるとあまりにも調子が穏やかなために、いちいち反応に困って呆気に取られてしまうのだが、そんなキナリの一挙一動は目端に映りもしないのか、老婆の独り劇は続く。 「元より留守にしがちな御方ではあったのですけれど、三日ほど前から忽然と姿を消してしまわれて。あれ、フウメイさんはどうしたのかしらと仲間内に話していたら、ウォーアンという名の、飛び切り小柄な男の子が私の元へ来ましてね。血相を変えながら話してくれましたのよ。星霜匣が動かないんだって」 フウメイとウォーアン。 また知らない人名が出てきた。 直接自分には関係のない思い出話だと捉えて、ここは何も口を挟まずに聞き過ごそうと決め、キナリは壁に背をつけ、体重を預ける。 その間、ケエは少しばかり俯いて、ほぅと浅く息をつく。 「旧人類の方々は、活発に働けば働くほどに、自然と睡眠というものを欲するそうです。安静にすることで疲れが癒えるのだとか。ところが、廻人にはその機能が備わっておりませんのね。星霜匣が、私たち廻人の体を癒やす物であることは確かですが、反して言えば、あれがなくては私たちの体は癒えないのです。この話は決して怪我のみに限りません。疲労を全く感じないのではなく、疲れが蓄積していくことに鈍感なつくりなのです。星霜匣を頼らずに生活を続ければ、私たちが廻人であるからには遠からず死に至るのだと――フウメイさんから教わったのはここまで」 声が乾いたのが気になったのか、ケエは咳払いを経ると、もう少し、棘の腕を労るように撫でる。 やはり痛むのだろうか。 寄りかかった壁から漂う黴のような臭いを感じながら、キナリはケエの身を黙して案ずる。 不信感がないわけではないが、彼女の寛厚露わな語りを聞くだけでも、疑心が自然と晴れていくのを自覚していた。 そして何よりも、ケエから語られる多くが未知であり、キャレーの地下室から始まった自身の空虚感にも似た知識欲を、それらが穴を埋めるように満たしていく。 廻人とはどういう人間なのか。 少なくとも、その根元に触れているのを強く実感している。 唇を噛みしめ、得体の知れぬ高揚を表に出すまいとするキナリの装いに気づいているのかも顕さぬまま、ケエは静かに言葉を連ねる。 「私たちはどうしても、死というものがよく分からないのです。あのとき事の深刻さを察していたのはウォーアンだけでした。それから半日とせずして、彼は私たちの元を離れ、姿をくらませてしまったのですが、後を追う仲間はおりませんでしたね。みなしてフウメイさんの帰りを待っていたのですけれど、終ぞ叶わず、今に至ってしまいました」 ケエの操る言葉は独特で、ややこしくて理解できないところがある。 気軽に問いかけて良いのか分からないほど不安なものであったが、なんとなくでしか把握できていない部分を確認するよう、キナリの口から問う。 「……ケエ以外の廻人はどうしたの」 ケエが率先して語り始めたことを考えると、今この機会に解消するべき疑問なのだろう。 彼女がどうしようとして街外れまで来たのか……徐々にキナリの勘が冴えてくる。 「そうですね……消えていったのは若い者からでした」 一変して落ち着いたケエの声に、顎先から首元、背筋へぞくりとした冷たい気が流れる。 「昨日の昼を過ぎあたりから、揃って体の各所に痛みを訴えまして。ちょうど今の私の腕のように、皮膚が固くなり、逆立ち、白化したと思った頃には、それぞれ音もなく崩れ、風に乗っては散り散り消えていくのです」 「消える……?」 「ええ。話だけでは想像がつきませんでしょう。大層に綺麗なものですのよ。みんな、そのときには泣くこともなく、ただ静かに空へと消えていくものですから」 最後はほとんど独白のようであった。 ケエは懐かげに話しながらもずっと腕を擦っていたが、徐に動きを止めたと思うと、掌を広げてじっと眺める。 そこには菱形を象ったような純白がびっしりと付着していた。 腕から突起していた棘が剥がれてしまったらしい。 少し離れた場所にいたキナリが目を見張るほどはっきりと、大量に分離していた。 その時点でいくつかの思考を終えたのだろう。 ちょっとの時間を黙したケエがようやくキナリを見上げると、悲しそうに独り笑う。 「これが、廻人の死の形だそうです」 そう言い放った唇も、頬も、すでに皮膚の白化が進行していた。 言葉を口にするだけの僅かな動作ですら、見る見るうちに隆起していく皮膚は葉のように揺れ、耐えきれずはらりと地面へと落ちていくのだ。 | ||
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