3章 文字(1)
「雨の方は大丈夫みたいなんで。えぇ……はいはい。じゃ、その通りに」

 一晩明けるうちに、雨はすっかり上がっていた。

 いつもの黒い空を背にして、いつもの調子で電話を終えたムロビシは、いつもの書斎にひとりきり。
 くたびれたソファから起き上がったのは、さして前の時間ではない。
 コンピュータの人工光が、暗がりの世界に馴染んだ目に痛々しく飛び込んでくるのが煩わしく、視線を逸らすように心がけながら受話器を戻す。

 腕を頭上に上げ、体を伸ばす。
 肘や肩、背中といった、ありとあらゆる関節が情けなく乾いた音を立てて鳴る。
 体中が痛い。
 そろそろあの質の悪いソファで眠るのは堪らない……そう考えるようになってから、もう一年近く経つのではないだろうか。

 買い換える金はない。
 増え続ける廃墟から拾ったとしても、存分に体を伸ばして眠れるような大きさの家具を運ぶ手段もなく、泣く泣く現状を維持するしかない。

 床にマット材を敷き詰めて眠る方法も試そうとした。
 地道に寄せ集めれば容易に叶いそうだと思った。
 それも実行に至らなかった原因は、(ひとえ)雨毒(うどく)にある。

 雨毒は降り注いで数秒で透明度を取り戻し、ただの雨水へと変化するが、毒性が完全に失われるわけではなく、ごく微量な効果を持ったまま乾燥した物質が沈殿、蓄積すると推測されている。
 それを知っていながら毎晩地べたで眠れるほど、ムロビシは人生を諦められていなかった。
 文句は絶えないが、こればかりは長い物に巻かれる以外ない。

 不毛な回想に耽る怠惰と共にストレッチを終え、机上に置かれた細身の白いリボンを静かに持ち上げる。
 回転式の椅子を半周くるりと動かして、窓の外に広がる恒常と化した悪天を背景に、リボンの片端を摘んだまま、もう片側を離す。

 縦一本に垂れるそれは、さながら、ヨサメを模しているようである。

 昨日、雨毒の降る中、なんとか無事に帰宅した後、朝のうち話していた通り、保留していた恒例の簡易検査を行った。
 最後に血液採取を終え、注射創を押さえるキナリから受け取ったのが、この白いリボンであった。

『ロットラントで買った。ムロビシにあげる』
『何に使う物だろう?』
『……髪に』
『へぇ――ありがとう。上手く結べるかなぁ』

 ムロビシにとって、キナリのその行動は予想外だった。
 そのあとすぐにカラスの元へ寄って、赤いヘアピンで前髪を留めてやっているのを見るに、どうやら彼にもプレゼントを買って渡してあげたらしい。
 カラス本人は面倒くさそうに嫌がっているが、なるほど、やはりキナリは心優しい子だと感心する。

(俺は不器用だからな……)

 宙に垂らして眺めていたリボンを、無骨な大きな手で抓み直し、後ろ手に回して、すでに髪を結っているヘアゴムの上から、白いリボンで蝶々結びを描く。
 このリボンだけで髪を結うには手間と慣れが必要だが、せっかくもらった心遣いなのだし、せめてこうして飾りとして使ってやるべきだろうと思った。

「さて――行きますか」

 上手く結わけているのか、自分で確認できるような洒落た道具はないが、どうせ誰が注視するようなものでもない。
 取り分け気にかけることもなく、事前に用意してあったくたびれた鞄を小脇に抱えて書斎を出る。
 底冷えする廊下を左――カラスとキナリのいる、星霜匣(データ・プール)が置かれた部屋の方を向くと、アカアリが所定の位置にぼうっと立って、窓ガラスから外を眺めていた。

 足も腕も痛々しい皮下出血の痕が残っているが、ひとまず自力で歩行することはできるらしい。
 至る箇所が破けてしまった服はあまりにも不埒で、さすがにどこかで買い直してやるべきかと唸りながら、廊下を進む。

 すれ違いざま、アカアリの首元にたっぷり設けられたファーに、見慣れない物体が付着しているのに気づく。

 青いブローチ。
 幾何学的なデザインで、それなりにしっかりとしたつくりのようだ。
 これも恐らくキナリが買い与えた物だろう。
 どこで何をするか予測しづらいアカアリでも引っ張ったりして落としづらそうな位置を選択して、宥めながらつけてやったのだと思えば、随分な成長である。
 普段アカアリの様子を観察しているキナリならではの結論で、直情的なカラスには到底真似できまい。

 ムロビシの考察の間も、アカアリは眼球すら動かすことなく、窓の外を静観している。
 そこから見えるものと言えば、雨毒により豊かさを失った荒野と、その先に聳えるヨサメくらいなものだろう。

「お前もヨサメがお気に入りか」

 アカアリが本当は何を見ているのか分かったものではないが、そう声をかける。
 もちろん、返答はない。

「しかし……前々から疑問だったんだが、そのピアスと髪留め、自分で拾ってきたのか?」
「…………」
「拾うだけならまだしも――そんなわけないよな」

 独りでに続く問いかけに、さすがのアカアリも脇目にムロビシを見る。
 ムロビシはヨサメを視線に捕らえながら、右手で数回、頭を掻いて呟く。

「性が悪い輩だね」

 うっすらと嘲笑を浮かべ、再び少年少女の元へと歩み出す。
 その姿を追うようにアカアリは首を回すが、すぐに何事もなかったように窓ガラスへと視線を戻し、じっと眺望へと意識を戻した。

 アカアリの所在から数歩進んだところで、厚い掌を丸め、壁をノックする。

「おふたり〜。起きてるかな?」

 返事を待たずして部屋を覗き込むと、相変わらず勉学に勤しむキナリと、何をするでもなく仰向けに寝転がるカラスの姿があった。

「……ヒマ」

 カラスがぼそりと呟く。

「昼寝でもできりゃいいのにね」

 ムロビシは笑って言うと、カラスは片足を上げて、その親指で星霜匣を指し示す。

「ちょっと前に、そこの汁から出てきたばっかだっつの」
「汁って。水とか液体くらい言いなさい」
「一緒だろが。そもそも、その『寝る』って感覚が分かんねーわ」
「うぅん。方法を覚えるような現象じゃないだけに、説明がしづらいね」

 入口近くに置かれた、星霜匣の維持装置のひとつに腰掛ける。

「それこそおいちゃん、廻人(ねど)が睡眠を欲さないっていうのも、君らの生活ぶりで初めて知ったくらいだし」
「ふーん。もっかい星霜匣潜っとくかな……。アカアリ、怪我してっから、いつもみたいに寄ってこねーんだよ」
「へぇ……」

 アカアリが手負いのうちに殴りかかって勝とうとは思わないのか、とムロビシは密かに思う。

「アカアリは眠ることはしても、『痛み』はないらしい。カラスくんとやり合うのを避けてるんだとしたら、痛いからじゃなく、動きづらいからだとは思うけど」
「んなのはどっちでもいいわ。とにかく、ヒマ!」

 当てつけのように言い捨てて、床をごろごろ。
 その床も冷たいだろうに……と哀れむムロビシは、カラスの前髪が赤いヘアピンでちゃっかり留められていることに気づき、噴き出しそうになるのを堪える。
 文句を言いながらも嬉しかったのか、はたまた前髪が視界に入るのが邪魔で仕方がなかったのか。
 理由はどうであれ、彼が存外素直にプレゼントに応じることも、ムロビシにとっては意外であった。

「ほら、これからイベントがあるから元気出しなって。昨日話したとおり、早速推進派の連中が来ることになった」

 ほんの一瞬、キナリの字を書く手が止まる。

「結構前に出発したって連絡は来てるから、もう少ししたら着くと思う。で、やつらが到着次第、おいちゃんは商売のお話をしに出掛けることになってる」
「そいつら相手に何すりゃいいんだよ」
「何するって……君らの健康診断のために来るって話したよね? いきなり殴りかかったりしないでよ?」
「約束できねーわ。体鈍ってるし」
「やれやれ、困った子ばっかりだな……」

 落胆するムロビシのぼやきを聞いて、キナリは自分も面倒くさがられているらしいことを知りムッとするが、どこからか聞き慣れない爆音が鳴り響いてきたことで、そんな不満は瞬く間にかき消された。
 ムロビシが立ち上がり、「クラクションだ」と教えてくれる。

「良かったね、カラスくん。早々に暇が潰せそうで」

 噂の来客のようだ。
 カラスはガレージの方面へ向かうムロビシを見ると、先程までのだらけた態度は嘘だったかのように軽やかに起きあがり、ポケットに手を突っ込んだまま後をついていく。
 キナリも、ゆったりと深呼吸してから席を立つ。
 アカアリはそんな三人の姿を見送るだけに留まり、その場から動くことはしなかった。

 ガレージに出、一旦車内に潜ったムロビシが、シャッターを遠隔操作で開ける。
 低音を轟かせて内側が開ききってから数秒明けて外側も開き始める。
 一枚だけでは雨毒の進入を防げないと、ロットラントへ行く前にムロビシが説明していたなぁと、キナリは遠い昔のように思い出す。

 二重構造のシャッターの先、見たこともないような大きな車が姿を現した。
 巨大なヘッドライトがコテージを煌々と照らす。
 外側のシャッターが完全に開ききった頃合いを見計らって、運転席からひょろっと細長い男が降りてきて、朗らかな表情で会釈をした。
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