3章 文字(2)
 身長はムロビシよりもう一段大きいようだが、かなりの痩身のため、嵩に掛かる印象はない。
 その華奢さはキナリにも負けず劣らずといった具合で、着ている服が身丈の割に余って見えるのもそのせいだろう。

 灰色の髪は、毛質の柔らかさが見て取れるほど重力に逆らうように立っており、その裾だけがほかより少し長い。
 実に手触りが良さそうな豊かさだ。
 切れ長の目に埋まる瞳の色は深い朱。
 反して、身にまとっている服は上下ともに臙脂色で揃えており、それらを半分ほど隠すような白衣に袖を通している。
 ムロビシとは随分と異なる衣服に、早速キナリの好奇心が向く。

「お久しぶりです、ムロビシさん」

 ひ弱そうな外見に似つかわない、たっぷりとした低い声で投げられた男の挨拶に、ムロビシは親しげに返す。

「どうも。しばらく振りだけど、トイトくん、また(やつ)れた?」
「かも知れないですね……。連日連夜、地獄を間近に眺めてますんで」

 トイトと呼ばれた長身の男は、萎れそうな空笑いを立ててムロビシの前まで歩み寄るのだが、その歩調はどことなくおかしい。
 カラスとキナリでもすぐに気づくほどの違和感を、透かさずムロビシが問いかける。

「足でも痛めたんかい」
「ははは……。疲労骨折だそうです。治りかけですけどね」
「君の担当、そんな重労働だっけ?」
「いえいえ。日照不良、栄養失調、睡眠障害……諸々のヤツです。軽傷なのに全治五ヶ月だって。困っちゃいます」

 世間話と共に、軽く握手を交わす。

「つくづく雨には参るね。それにしても、その足で運転してきたわけ?」
「ええ。ラヤンに任せるには、僕の肝っ玉が及ばないもので」
「あぁ……賢明だ」

 カラスは二人の会話を部分部分聞き取りつつも、あまり意味のある内容ではない気がして、呆れたように溜息をつく。
 まだしばらく無為な時間は続きそうだ。
 ガレージの一角に積まれた車のスペアタイヤに腰掛ける。
 一方のキナリは、トイトの挙動を舐め回すように観察していた。
 一切を見逃してなるものかという気概が瞳に宿っている。

 トイトの肩越しに車をちらりと覗いて、ムロビシが続ける。

「そのお抱え問題児の様子はどうだい」
「こんなに待っても降りて来ないところを見てもらえば分かる通り、相変わらず。もう一度躾け直していただいては?」
「勘弁してくれ」

 からかうようなトイトの一言に、ムロビシは珍しく心底渋い表情を浮かべ、首を左右に小さく振る。
 そんなムロビシの困惑を大層満足げに眺めたトイトは、後ろに停めた車を振り返り、助手席に向けて手を招いた。
 男二人の話から察するところ、まだ車内に誰か居るようだが、ヘッドライトが邪魔をして全く姿を捉えられない。

 妙な間が場に流れてから数秒経つと、根負けしたのか、小さな人影が大型車の助手席から身軽に降りてきた。
 爪先立ちで覗き込んでいたカラスの目にも、ようやく全貌が映り込む。
 キナリも追って確認する。

 人影の正体は、女と思しき人間。
 トイトと呼ばれた男と同様の白衣を身につけているが、そのほかの奇抜な容姿には、普段口の滑るカラスが言葉を失うほどであった。

 目にも鮮やかな明るい青い髪は、前髪だけが短く刈られ、長い両鬢(りょうびん)の先端だけ結ばれている。
 吊り上がった赤目と、首元に巻かれた薄手の布の隙間から見え隠れする、黒い絵のような模様が放つ威圧感たるや凄まじい。
 腹と腿を露出するような服も目を引くが、胸部の起伏は少なく、性別の判断を迷う一因を担っている。

「ほら、挨拶」

 トイトに促され、悪魔のような風貌の女は、僅かに会釈をして、口を開く。

「……お久しぶりです」

 非常に聞き取りづらい小さな声。
 決して弱々しいわけではなく、わざと(ども)っているかのよう。
 大仰に肩を竦めるトイトに唆され、ムロビシが仕方なしに女へ声をかける。

「――普段の暴悪っぷり、俺にも人伝に届いてるぞ」
「光栄です。感化されたまま抜けやしませんので」

 先程の囁きのような喋りとは打って変わって、女が他に物言わせぬ早口でまくし立てる。
 どうやら二人は知り合いであるらしいが、親しいわけではないのか、互いが売り言葉に買い言葉だと、キナリはそっと思う。

 ムロビシは調子を乱すこともせず、淡々と続ける。

「そろそろ相手を選んで慎む手段も覚えた方がいいんじゃないか」
「どの口が言いますか。お互い様でしょう。本部じゃあなたもいろいろ言われてますよ」
「なるほど……光栄だね」

 (すこぶ)る機嫌を損ねた女に、ムロビシはそれ以上の言葉をかけることは諦め、わざとらしくトイトを真似て肩を竦めてみせる。

「こんなもんでいいかい」

 やはり満足そうなトイトが綻ぶ。

「お手上げですね」

 懐かしい面々との挨拶が終わったのか、ムロビシがカラスとキナリを振り返る。
 カラスの顔面には、あまりにも回りくどく分かりづらい三人のやり取りから置き去りにされた不満が浮き彫りになっているが、それを弄ぶ気分ではないのか、ムロビシから簡潔な紹介がなされる。

「この二人が、例の推進派の一員だ。小さい方がラヤン。大きい方が――」
「トイトです。よろしく」

 カラスの内心を悟ったのか、トイトは紹介を食い気味に遮り、手を差し出す。
 握手を求める動作だ。
 先のムロビシとトイトのやり取りを思い返しながら、その手を素直に握り返すべきか否かを悩むカラスの脳裏に、突如、奇怪な光景が閃光のように瞬いた。

 目の眩むような明るい空間。
 眼前に迫る大きな掌。
 そこに張りつくのは、無数に蠢く小さな物体――。

「――触んなッ!!」

 引き攣り声を上げ、トイトの掌を平手で弾く。
 いつになく突飛なカラスの行動に驚き強ばるキナリ。
 咄嗟に身構えるラヤン。
 ムロビシは……座視に留まる。

 目を白黒させるトイトへと意識が向き直ると、カラスはハッとして歯を食い縛る。

 今見た光景は、一体――。

 言い表すことのできない物恐ろしさを孕む、記憶にない場景だった。
 脈絡のない幻覚の明滅に狼狽え、間近に体が反射してしまったことだけは弁える。

「悪いね、トイトくん」

 自身に何が起こったのか、思考の整理に忙しいカラスよりも先に一声上げたのは、最も騒ぎに関与しないでいたムロビシだった。

「その子、特別小心者なんだ」

 日頃のカラスが聞けば逆上するような物言いだが、それが緊迫した空気を(いささ)か解す巧言を担った。

「……うっせー」

 ともかく、カラスがいつもの調子で悪態をつくだけで場の混乱はある程度収まった。
 トイトも平手打ちを食らった手をさすりながら、納得したように「なるほど、なるほど」と呟く。

「驚かせてしまったみたいで、申し訳ない」
「……」
「今日は二人にいくつか問診を……いや、失礼。そうだな、もっと端的に言うと……今後の二人の待遇を決めるためにも、事前に聞きておきたいことがいろいろとあるんです。協力してもらえると非常にありがたいんですけど、どうでしょう?」

 言葉を選りすぐりながら説明して、改めてトイトが握手を求める。
 すぐに応えようとしないカラスと、やや離れて様子を見守るキナリを交互に向くようにして、どちらかが口を開くのを待つトイト。
 その喧しい動きをじっと眺めてから、ようやくカラスの口から一言が放たれた。

「イヤだっつったって、どうせ帰らねーんだろ」
「……おや」

 捨て鉢な物言いを受けたトイトは、途端に感情を削ぎ落とし、ムロビシを振り向き一瞥する。
 ラヤンも黙ったままだが、同じようにムロビシに向けて睨みを利かす。
 二人の焦点に合ったムロビシは、ゆっくりと息を吐く。

「……悪いけど、不躾な部分はフォロー願うよ。俺一人じゃ手の回らないことも多いんでね」

 何かを察した様子のトイトは、特に言及することもなく頷いた。
 カラスとキナリにはさっぱり分からないやりとりが、どうやら双方の間で完結したらしい。

「合点です。それじゃ、定例通りに」
「はいはい。商談入れてあるんで、エントルまで出ますわ」
「夕刻までには終わりますんで……あっ。すぐ車退かします」

 わたわたと動き始めた男二人を見、結局挨拶らしいことをせずに終わってしまったことを、カラスは僅かばかり気にかけて不貞腐れる。

 事前に段取りを決めていた通り、用事を済ませるため車に乗り込もうとするムロビシに、ふとトイトが調子を戻して問いかけた。

「車……やばくないですか? ボンネット(ひしゃ)げてますけど」
「ちょっとやらかしてね。昨日はちゃんと走ってたし、今日分くらいは働いてくれるでしょ」
「年代物はタフですねぇ」
「俺も(あやか)りたいよ」

 しげしげと半壊状態の車体を眺めて、何故か楽しそうに話す二人が、それぞれの車に乗り込み、慣れたハンドル捌きで位置を移動させる。
 その一連の展開を残された三人が無言で眺める構図が短時間流れたが、不意にラヤンがカラスたちを向くと、その鋭い相貌を順に運んで光らせる。

「なんだよ」

 彼女の人となりを知る機会はムロビシとの応酬でしか得られていない現状だが、カラスは相変わらず即行(けしか)ける。
 双方が穏やかな人物ではないことを悟っているキナリにとっては、まだ少しの間、肝を冷やす時間が続くらしい。

 投げられた煽動を拾うつもりがあるのかないのか、ラヤンが間も狭く口を開く。

「中に入れ、ガキ共」
「――はァ?」

 呼吸を感じさせない、独特の間を経て放たれたそれは、キナリが懸念していた場荒れよりも遥かに突拍子がなく、過激なものであった。
 当然、直情的なカラスが粗暴な言葉遣いに食ってかかるのだが、ラヤンが怯むことはない。

「家主の不在により、お前等の管轄はボクたちへ移行された」
「だァから! テメェもおっさんも説明ハショり過ぎなんだよ! 分かるように話せ!」

 いつの日か振りの懐かしいやり取りの再現が、性懲りもなく繰り広げられる。
 キナリからしてみれば、随分と遠い昔の回顧に耽る気分だ。
 無論、初顔合わせのラヤンには不快な雑言でしかない。

「……騒がしいぞ、クソガキ」

「黙れ、イカレ頭。オレは指図されんのが死ぬほど嫌いなんだよ」

 右へ、左へ。
 カラスの重心が僅かに揺れる。
 アカアリとの組み手に挑む際によく見せる、踏み込む直前の彼の癖。
 毎日一緒に生活するキナリには見慣れた動作だった。
 殴りかかる気なのだろう。
 自身の非力を誰よりも自覚しているキナリは、せめて呼び止めなくてはならないと判断し、息を吸い込もうとするのと、ほぼ同時。

  「説明求めておいて『黙れ』かよ――」

 舌を打ちながら、ラヤンが姿勢をぐんと低く取った。
 カラスの出方に気づいている様子で、何かしらしようと企てているようだ。

 相手が迎え撃つ態勢に入ると、尚火がつくのがカラスという生き物だ。
 こうなってしまうと、名を呼んだ程度では何の抑止力にも成り得やしない。
 カラスの服の裾を引っ張ろうと腕を伸ばした瞬間、視界の端から暗転し、体の末端から一切の力が抜け落ちる。

 眩暈――とかいう、体の不調の特徴に似ている。
 地面すらすり抜け、無限に沈んでいくような感覚に襲われるが、視力がすぐに回復したのを察知して顔を上げる。
 しかし、その先にあったのは、見たこともない暗い壁。
 すぐ傍にいたはずのカラスとラヤンの姿も、視界には捕らえられない。
 体の沈下は止まらず、どこのものとも知れない壁が急激に遠ざかっていく。

 ここまで来てようやく、どうやら自分は仰向けになっていて、壁だと思い込んでいた物は天井であるらしいことを認知した。

 つまり、このままでいれば、かなりの高さから、床に落ち、背中を打ち、大変な怪我を、負うのでは――?

 惨劇を予測する思考がコマ送りで噴出する中、ぎゅっと目を閉じると、ガラガラという崩落音が耳を劈く。

 痛みはない。
 ずっと感じていた落下の感覚も消えた。
 得体の知れない恐怖を胸にしながらそっと目を開くと……力一杯伸ばした腕の先で、カラスが半月を描いて宙を舞っていた。

 元の世界に戻ってきた。
 そう歓喜した瞬間に汗が噴き出し、カラスが背中から床に叩きつけられ、部屋の隅に積み上がる車の金属部品が飛び散って騒音を立てる。
 カラスの口から軋むような苦悶の息が漏れると、直にガレージはしんとした沈黙に支配された。

「情緒沸きすぎだろ、単細胞が」

 つかんでいたカラスの腕を放り投げるように離して、ラヤンは立姿を取り直す。

「半不死身の新人類を相手取るのに、丸腰の研究者だけでこんなとこ来るワケないだろ。ちょっとは思慮しろ、バーカ」

 緩んだ首元の布切れを直しながら放たれるラヤンの罵詈は、痛みに悶絶するカラスに届くはずもなかった。
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