3章 文字(3)
 キナリが身に覚えのない空想に動転しているうち、一方のカラスはいとも容易く負かされたようだ。
 ラヤンの出で立ちにさほど変化が見られないのがその証拠だろう。
 息も上がらず、怪我どころか汚れもせず。
 多少の高揚感だけは湧くのか、険しいままのラヤンの表情に、心なしか色彩が宿っているように見える。

「おい。そっちの根暗」

 そんなことを考えながら状況整理を急ぐキナリへ、ラヤンが声を掛ける。

 根暗。
 凶暴なほど実直な呼称に、キナリの顔は自然と強ばる。
 カラスは分かりやすく打ちのめされたが、はてさて、自分はどんな仕打ちを受けるのだろうかと、被害妄想は止まることを知らず広がっていく。
 石像のように動かない少女を見、ラヤンは何か言い掛けた口を閉じると、興醒めといった様子で視線を伏せた。
 痛みに身を(よじ)るカラスを見ているように見受けられる。
 まるで嵐の前の静けさのようで、逆にキナリの不安を煽る沈黙が下りる。

 何かしらに対して不満なのだろう。
 ラヤンは僅かに口を尖らすと、先程までの殺気立った語調とは似ても似つかぬ小さな声で、つぶやく。

「……星霜匣(データ・プール)まで来い」

 ムロビシと相対したときと同じく、ぼそぼそと聞き取りづらい。
 キナリの返事を待つこともせず、ガレージから建物内に入ることのできるドアを勢いよく開けて、サッシュに右足を掛け、俯き加減の目線を動かすこともなく言葉を補う。

「初見からずっと顔色が悪い。何も問診を立ったままやる必要はない。そこで伸びてるガキとっとと連れて来い」

 やはり早い語調でそう言い捨てると、ラヤンはドアをくぐって姿を隠した。

 確かに、ラヤンに見破られた通り、先程の奇妙な出来事も含めて気分は優れない。
 気分が悪い理由はそれだけではない。

 昨日からずっと頭から離れないケエのこと。
 それについてラヤンとトイトから聞き出す暇があるのだろうかと気を張っていたこと――。
 自分の顔色までは把握できていないが、他人に言い当てられるのならば相当顔に出ているのだろうな、とキナリは思う。

 しかし、他人の不調を察して、気遣いを窺わせながら場所を変えるところを見るに、ラヤンは意外と話の通じる人間かも知れない。
 未だ人物像が不明瞭であることに変わりはないが、不安要素が少しばかり解消されただけで、キナリの緊張感は大きく和らいだ。
 ほう、と息をつく頃になって、呻きながら身動いだカラスに声を掛ける。

「大丈夫?」
「大丈夫じゃねーよ……見りゃ分かんだろ……」

 力んだ両手で顔を覆い、落ち着かないようにその手で額や頬を強く擦りながらの返答。
 まだ痛みが抜けきらないのだろうか。いつものようにキナリの言葉を無頓着と誤認して怒るにしては、あまりにも覇気がない。

 なんとか身を捩って俯せの姿勢を取り、肘を床に突いて、鼻先を地面すれすれまで近づける。
 長さのある前髪が邪魔をして、キナリからはカラスのその表情を覗くことはできない。

「どいつもこいつも強ぇな……」

 気に食わない。
 悔しさが色濃く滲むカラスの小さな独り言の最後に、口には出していないそんな一言が聞こえた気がした。

「なぁ」
「うん」

 普段より幾分低い声で呼び掛けられたキナリは、これまでに何度も繰り返してきた短い相槌を打つ。
 カラスは少し顔を上げ、続ける。

「あのトイトってヤツの手、なんかついてたりしたか?」
「……何もなかったと思うけど」
「オレの顔面を、こう、グワッと掴もうとしたりは?」
「してない」
「だよな……」

 何を気にかけてそんなことを聞くのだろうかと思いながらも素直に答えると、それを受けたカラスも、首を傾げてから起き上がり、あぐらを掻いて座り込む。

「そういう風にされそうになった……気がしたんだよな」
「トイトは普通にしてた」
「だァから分かってるって!」
「カラスの勘違いじゃ――」

 勘違いを放っておくと後々になって厄介事を起こす可能性もある。
 今のうちに訂正できることはしておこうとしたキナリは、そこまで口に出したところでハッとした。

「さっき、わたしも……!」

 何事かを説明しづらそうにしているカラスの口振りから、つい先程の奇妙な体験を思い出した。
 カラスの目の前にしゃがみ込んで、目を合わす。
 珍しく声を張るキナリにぎょっとしたカラスが僅かに仰け反ると、後頭部に何かが当たる。
 こんな間近に何も置いてなかったはず。
 鋭敏に振り返ると、長身の男がにっこりして二人を見下ろしていた。

「何の話ですか?」

 トイトだった。
 車を退かすと言ったきりなかなか戻ってこなかったので、とんだ不意打ちに二人は硬直する。
 その様子がおもしろいのか、口角を緩く上げて、笑う。

「ふふ。内緒話くらいするよね」
「……教えろってか?」
「いや、強要はしないですよ。紳士的でしょう?」

 冗談を言って、カラスの頭を右手でぽんぽんと二度、軽く叩くようにする。
 一瞬攻撃かと身構えたカラスだったが、どうやらそういった類の目的の行為ではないと気づくと、それでも口を曲げ、歯を見せて不服を表した。
 トイトはカラスの感情表現に構うことなく、話を変える。

「それよりラヤンはどこかな? 遠目にカラスくんと遊んでいたのは見えたんだけど」
「あれが遊んで見えたのかよ」
「ふふ。最近はラヤンも運動不足で気が立ってたから、ずいぶん楽しそうでした」
「どういう生活してんだよ、テメェら」
「俺たちも、あまり野外に出られないもので」

 君たちと一緒だね、とトイトは自嘲する。

「たぶん星霜匣の部屋にいる」
「おお。ありがとう」

 トイトは少し腰を屈めると、礼を述べつつ、キナリに対しても頭をぽんぽんと叩く。
 一切の力を込めていないのだろうが、体格の差からか、キナリの細い首にはそれなりの負荷がかかる。
 とはいえ、トイトのその行動は何となく気分の良くなるものであった。

 上体を元に戻し、改めてガレージを一瞥。
 キナリから教わった通りラヤンが待つと思われる星霜匣へ向かうため、白衣を(なび)かせながら、ガレージの出入り口に足をかける。

「二人も、ラヤンに呼ばれたのなら早めに行った方がいいと思うよ。あの子、見て分かる通り、ものすごく利己主義で短気なんだ」

 先に行くからね、と手を振ると、トイトは廊下を歩いて行った。

 トイトの放つ茫々(ぼうぼう)とした空気感に中てられた二人は、数秒の間、言葉を交わすこともなくぽかんとその場に居座った。

「――で、キナリも変なもん見たのか?」
「あ……うん」

 カラスが立ち上がりながらキナリに話の続きを促す。

「……カラスがラヤンに飛びかかるの止めようとしたとき。知らない部屋の高いところから、背中を下にして落ちてた……気がした」
「なんだそれ。さっきの出来事関係ねーじゃん」
「そう思った。けど……景色が元に戻ったとき、ちょうどカラスがラヤンに投げられて、背中打ってた」
「予知かよ」
「ちょっと違うと思うけど……」

 カラスの放った『予知』という言葉で、さらに思い出す出来事があった。

「――そういえば、キャレーで最初にアカアリと遭ったときも同じようなことあった」
「すげー前の話だな……」

 気味悪そうな表情のカラスに、こくりと頷く。

「やっぱり、カラスを止めようとしたときだったと思う。あのときは何かが見えたんじゃなくて、なんとなく、カラスがアカアリに負けるのが分かった感じ」
「……その場ですぐ言えよ」
「言おうとしても聞かなかった」

 ぴしゃりと言い切るキナリにむっとして、カラスはラヤンやトイトと同じ経路を歩き出す。
 機嫌を損ねたのは、アカアリに負けた過去を思い出したからなのか、はたまた素行をキナリに注意されたからなのか。
 いずれにせよカラスにとって都合のいい話ではない。
 未だ廊下に佇むアカアリを警戒しながら通過して、早々にこの話題を終わらせようと、後をついてくるキナリに向けて言う。

「まァ、キナリも同じような経験あんなら、オレだけがおかしくなっちまったワケじゃねーな」
「……どっちもおかしくなってるのかも」

 またいつもの「うん」が返ってくると思っていた。
 しかし実際は、カラスの考えていたような気軽な相槌はなく、(いや)に気にかかる含みをもった言葉が二人の間に落ちた。
 歩みを止め、眉を(ひそ)めて振り返るカラスに、キナリは黙って、緩やかに首を振る。

「――ラヤン、怒らすとめんどくさそう。早く行こう」

 話を逸らすには勢いの足りない提案を無視して、カラスはキナリへ一言突きつける。

「オレになんか隠してんのか?」

 余計な気遣いのない疑念だった。

 普段、他人の言葉に耳を傾けることをほとんどしないというのに、言葉少ななキナリの機微を見逃さない嫌いがある。
 鋭く飛んできた疑問に緊張を感じながらも、よもや誤魔化しが通るとも思えないキナリは、素直に頷いてみせた。

「……隠してる。でも、まだ話したくない」
「――あっそ」

 僅かに目を細めたカラスが、さも興味もなさげに吐き捨て、再び歩き出す。
 怒りを露わに食い下がられるのではと構えていただけに、キナリは素っ頓狂な表情を浮かべてしまう。

 時折、カラスの感情の起伏が読み取れないことがあると、キナリは廊下を歩きながら考える。
 彼もまた、何か隠している考えがあるのだろうか。
 驚くほど単純な思考で相手に襲いかかるときもあれば、ほんの些細な変化に気づいては相手を問い詰めるときもある。
 何も考えていないようで、実はそうでもないのか?
 そんな想像を膨らませて、しかし、ほぼありはしないだろうと決めつけて、キナリは思慮断念の息をついた。

 いずれにしてせよ、互いの腹の底をおおっぴらにするタイミングは今ではないだろう。
 とにかく、キナリにはまだ、ケエから教わった廻人(ねど)の事実についてカラスに明かす勇気がない。
 もし可能ならば、ラヤンとトイトから直接話してもらった方が情報は正確なのではないかと、そう期待しているせいでもある。
 カラスも、二重構造の頑丈なシャッターが開放されたままのガレージから抜け出すこともせず、来訪者である二人の待つ星霜匣を目指している時点で、対話に臨むつもりでいるようだ。

 無言の少年少女は、自室でもある星霜匣の設置された部屋に辿り着く。
 ずいぶんと待たせることとなったが、ラヤンとトイトはいるだろうか。

 恐る恐る部屋を覗き込むと……すでに睨みを利かせていたラヤンと、思い切り目が合った。
 その両手は、星霜匣の周囲に設置されている大きな機械の側面に添えられており、中腰のまま股割りという斬新な体勢である。
 一方のトイトは、ラヤンの隣で工具を持って笑っている。

「遅いッ!!」

 凄まじい怒気が風になって届かん勢いの喝が少年少女を強襲する。

「何分くっちゃべってやがる!? お前等には時間の概念がないのか? これだからボクはガキも新人類も子供も嫌いなんだよ!」
「ガキと子供は一緒だと思うなぁ」
「黙れ!」

 口を挟んだトイトへ怒りの矛先が向く。

「大体どうして、トイトも後から来たっていうのにガキ共を連れてこなかった?! おい、ヘラヘラしてないで話を聞きながら手を動かせ、トイト!!」
「はいはい」
「一度に二度返事をするなって普段から言ってるだろ!!」
「ふふ。一粒で二度おいしい、みたいだ。いや、違うか」

 完全にとばっちりを受けることになってしまったトイトだが、ラヤンの憤怒を全く真に受けることなく、訳の分からない独り言を口走りながら緩慢に作業に取りかかる。
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