プロローグ(1)
 少女は、眼下の亡骸に何を思うこともないのだろうか。
 それは紛れもなく少女の兄であり、彼の耳元に放り投げられた工作カッターは、後から塗装されたかのように生々しい赤を纏っている。
 薄く脆い刃は少女の手により突き立てられ、幾度も折れ、およそ刃として物を切り裂くことさえ忘れつつも、変声期を終えたばかりの兄の喉を、太さを増した首を、羅綾(らりょう)で隠した肺を、心臓を壊すことを叶えた。

 少女の目には、兄は何かに蝕まれて写っていたのかも分からない。
 だからこそ、血を流す穴によって救ってやったのだと誰かは叫ぶかも知れない。
 少女はただ言葉を知らなかっただけなのだ、と――。
 人は理解を義務とする一方で、解決できない問題を曖昧に終わらせるのも厭わない。
 我々の文化は短い歴史の中で大きく開花したが、いつまで待っても、この悪しき習慣が大衆の意識からなくならないのは何故なのか。
 理解できない対象への好奇心は、多くの者が無駄なものとして捨て置き、やがて最初から何もなかったかのように振る舞えてしまう空虚と背を合わせているとさえ考えられる。
 三つ年上の兄を手に掛けたこの少女はちょうど、生まれ持った脳の障害により、身近なあらゆる人間にとってそういった対象であった。
 言葉を操ることはほとんど叶わず、しかし体ばかりは歳不相応に発達を急ぎ、やがて力の加減を知らぬまま飼い猫を噛み殺したのがつい半年前の出来事だ。
 いつか大事になるのではないかと、兄妹の両親が周囲から口煩く言われていた矢先の惨劇だが――あるいは、この結末を望んだ人間も少なからずいた。

 骨のような少女の手が、兄の亡骸へ(しき)りに触れる。
 遠くから野次馬の声が聞こえるが……恐らく聞こえているのだろうが、少女の眼球は誰もいない近場をキョロキョロと見回すだけだ。
 少女の異様な挙動を気に留めていた者は、その後口々に「何かを目で追っていた」と語る。
 その“何か”は一体どのような存在なのか。
 ほとんどの場合は思い違いだったと自身に言い聞かせ、一日、二日……と、時間を重ねれば重ねるほどに未知への恐怖は薄れ行き、数年も経つ頃には思い出話にも挙がらぬ端的な情報でしかなくなるのだろう。

 大きな騒動に発展したこの渦中、死した兄と尚も戯れる少女を身の内に誘う女が現れた。
 キセルを構えた黒装束の、いかにも奇怪な女だ。
 いずれの人がそう思えども、もはや少女の今後を案ずるほど豊かな人間はその場におらず、出先から駆けつけたらしい兄妹の両親ですら、泣きながら女の提言を歓迎したほどであった。

 こういった小さな違和を追求する者が大功を成す好例も、変化を知らぬ世の仕組みの一つなのであると、女はキセルを弄びながら稀に笑うように哀れんだ。
 やがて、この違和が潰える時点を失ったとき、姿形を変え、誰とも知らぬうちに世界の新しい仕組みを生み出すことを知り得るのも、そう多くない人間に限られた話である。
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