プロローグ(2)
 黒天を仰いで煙草を吹かす、黒髪の男がいた。
 髪と同じように黒い広襟のシャツの上には白衣をだらしなく纏っている。
 しかしこの白衣、白と称するには汚れが目立つ。
 土埃であったり、微かな血痕であったり、果てには裾も大きく破れていたりと、とにかく損傷が激しい。
 無数の小さな擦り傷や火傷を負った指に煙草を挟み、煤に塗れた口元へと運んで呆けたと思えば、時折煙に()せ、その度に情けない声を漏らして脇腹を擦る。
 無理もない。
 この男、つい一時間ほど前まで崩落した建屋の下敷きにされていたのだ。
 あばら骨はいくつか折れているだろう……。
 どす黒い空を背景に、紫煙がいつもより存在感を増して浮かんでは音もなく消えゆくのを、心底気怠げに見送りながら思った。

 黒々とした雲――雷雲にもよく似た、()れどもそれより遥かに濃く、墨を多分に吸い込んだような雲が、生温い風と共に空を覆い隠していく。
 漂ってくるのは雨の匂い。
 尤も、その空さえも、色彩を忘れ、淀んだ灰色に身を隠してから数年が過ぎ去っている。
 太陽の光は遮られて縷々(るる)として久しく、男が腰を下ろす地面にも、草一つとして根付くことができなくなっていた。
 そして、この黒雲から滴り落ちる雨もまた、それは夜のようなのである。
 墨や灰とは異なる、不思議な黒。
 物体に触れた瞬間、無色透明の水へと変化する様子はさながら奇術を思い起こさせるが、元々そういう性質のものであると言われれば、確かに自然現象としか考え及ばないほど見事なものだ。

 この、数日に一度は降り注ぐ黒い雨だが、日照不足や湿度過多よりも数段厄介であった。
 男がこの世の終わりみたいな面持ちで空を見上げるのも致し方ないほどに。

 失われた自然の代わりと言っては味気がないものの、周囲には巨大な無数のコンクリート片が散乱しており、その残骸を少し俯瞰に見ることができれば、それなりに大きな建物が内側から爆発により粉砕されたのが軌道から推測できる。
 男が瓦礫に埋もれて気を失っていたのは爆心地から二十歩ほど離れた距離だった。
 直線上にいくつか壁があったとはいえ、数十の小部屋を有する巨大な建物が全壊するような爆発から生還できたのは奇跡的だろう。
 それらを一望できる小高い丘の上に座り込み、迫り来る黒雲に気がつくまでは、ぼんやりと、生き延びていることに思い馳せていた。

 ――雨が降り出す前にこの場を離れなければならない。
 あまり猶予がないことを実感し、乾いた土に煙草を押しつける男の背中へ呼び声が掛かる。

「ロウ。俺たちは先に避難するよ」

 ロウと呼ばれた男が、黒髪を揺らして声の方へと目を向ける。
 そこに立っていたのは物腰穏やかそうな長身細目の青年と、それとは逆に恐ろしく不機嫌そうな顔つきをした小柄な女の二人組。
 どちらもロウと同じように薄汚れた白衣を着ている。
 先ほど呼び掛けたのは男の方で、雲とは反対方向を指差して続ける。

「ひとまず、風下方面にあるキャレー集落で匿ってもらおうと思う。雨が止んだらロットラント市街に戻るつもりでいるけど、君はどうする?」
「俺は……目をつけられちまった以上、街には戻れそうにないし、その辺の空き家にでも住み着くか。機材が揃ったら改めて連絡する」
「それじゃ、この三人での共同研究もいよいよ解散だね」

 割と気楽な調子で青年は言う。
 風になびく髪が気になるのか、右手で幾度かいじり、気が済んだタイミングで今度は瓦礫の端を指し示す。
 身の丈ほどある建屋の破片が折り重なっている。

「検体、拾っていくんだろ」

 頷くロウ。

「どうせなら目の届く範囲に置いておいた方がいいしな」
「お気に入りだったもんね」
「問題なのはそれだけじゃねぇって」

 天候の崩れそうな荒野で何の気なしに会話する男二人を、女は親の敵みたいに睨みつける。
 ロウは全く気に留める様子もなく欠伸しているが、青年は「分かったよ」と(なだ)めるように息をつき、取り留めもなく続いてしまいそうな雑談から路線を変更する。
 それぞれの役割を自然体で察しているようだ。

「どちらにせよ時間はない。お宝探しに熱中しすぎて雨に殺されないように」
「肝に銘じておく」

 それから視線を女に向けるロウ。

「せっかく瓦礫から引っ張り出してもらった命だしな」
「……よく言うぜ」

 女は一瞬面を食らったようにしたが、すぐに分かりやすく舌を打った。
 米神から流れる空色の髪の隙間に、花弁の長い数輪の花をモチーフにした刺青が覗ける。
 今はそれを隠すように首に包帯を巻いているが、あまり器用ではないのか、雑にも程を知るべきであろう具合だ。
 結果、刺青の半分が姿を晒しており、何のために装っているのか全く分からなくなっている。
 ロウがそんなことを観察しているのも露知らず、鋭い犬歯を剥くと、愚痴っぽく話す。

「あんたの悪運の強さには寒気がする。天井に潰された状態で呻いてるのを見たときはゾッとしたさ」
「そりゃ俺も同感だな。ただ、人の下に人を造ろうとしている輩を手放しに死なせてくれるほど、神様の懐は広くないらしい」

 喫煙を終えてからものの数分しか経っていないのだが、口寂しくなり、再び煙草に火をつけた。
 大きく息を吸い込んで満喫しようと試み、みっともなく咳き込んでしまう。
 ロウの呼気に乗って煙の臭いが届いた時点で、女は鬱陶しそうに鼻を抓んで応対。

「……検体の収容室は綺麗に崩落してた。逃げてないとしたら、瓦礫の下敷きになってぺしゃんこだろうな。それを時間もないのに拾いに行く? 付き合いきれねぇよ、狂気の沙汰だ」

 粗暴な言葉を並べた捨て台詞を最後に、長身の青年が話した通り雲のない風下を目指して歩き出す女を眺めながら、ロウは自嘲するように、あるいは挑発するように鼻を鳴らす。

(いま)だに正気でいるつもりだったのか」

 煙がゆらゆら揺れる。
 どこか愉快げな声色さえ顕すロウを今一度振り返る女は、しかし直後目の当たりにした光景に息を呑むこととなった。
 先程までの悪意に満ちた饒舌は嘘のように止まり、呼吸を忘れるほどの衝撃を帯びた表情だ。
 少し遅れて女の様子に違和感を覚えた青年も、周囲を見回し、すぐに同じように呆気に取られた。

 崩壊した建屋の瓦礫の合間で、何かが蠢いていたのだ。
 遠目には詳細が分からない。
 それは間違いなく生物であるのだが、法則性のない鈍重な動きを続けている。
 明かりがほとんどないため確証はないが……朱い、肉の塊のようだ。

「潰されただけで死ぬような生き物なら、なんぼでも良かったんだけどな。検体(あいつ)はそれだけじゃ死ねないらしい」

 おおよその状況を把握して絶句する二人へ、ロウは悲愴な吉報を告げる。

「残念ながら、あれが俺らの待ち望んだ“新人類”だ」
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